重要事項書き抜き戦国史(147) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(313)

重要事項書き抜き戦国史《147》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《37》

プロローグ 戦国史Q&A《その37

信長はどのようにしてつくられたのか(その十三)

 

 尾張国に拉致されてきた竹千代は最終的に信秀が自由にできるようになっていくわけですが、問題はどうしてそうなったのかという経緯と動機です。あまたある文献の類は田原城主戸田康光が駿府に人質として送られる竹千代を拉致して舟で尾張国に連れ去り、織田信秀に銭五百貫で売り渡したと記述しておりますが、典拠とされるのが慶長十六(一六一一)年八月一日から元和元(一六一五)年十二月二十九日まで駿府城の出来事を日記風に記録した『駿府政事録』の記事で、家康が雑談の中で「わしは幼いとき、又右衛門某に銭五百貫で売られた」と語ったというくだりです。

 おさらいになりますが、天文十六年に起きたいわゆる「竹千代拉致事件」は、竹千代を護衛する一行が三遠国境潮見坂にさしかかったとき、田原城主戸田康光が「陸路よりも海路が安全だ」といい、強引に老津浜へ誘導、竹千代を船に乗せて熱田に向かったとされる出来事です。竹千代を得て、織田信秀は褒美として戸田康光に銭五百貫文(一説には一千貫文)を与えたということになっております。しかしながら、振り返ってみて、これほど不可解な事件はないといえます。康光は松平広忠の継室田原御前(真喜姫)の父親でしたから、広忠の舅に当たります。祖父宗光の松平信光とのかつての同盟関係を考えたら許されない背信行為です。結果として、今川の時の当主義元は竹千代が尾張に送られたと聞くと激怒して天野景泰に田原城攻撃を命じ、籠城して抵抗する康光を嫡男堯光とともに討ち取らせています。こうなるとわかっていながら、なぜ康光は広忠ならびに義元に背いて竹千代を尾張国に届けたのでしょうか。あるいはまた、私たちが首謀者とする石川清兼の身になって考えると、どういうことになるでしょうか。

 曽祖父政康の代から父親の忠輔を経て子の清兼まで、あれほど待ち望んでも現れなかった天下布武の有資格者がほとんど時を同じくして二人も現れるとは……。

 ここでいう二人が信長と家康をさすことは申すまでもありません。シチュエーション読解力(洞察力)の観点から致しますと、清兼が竹千代拉致事件を緊急避難的に決行した当時、家康がまだ六歳と幼かったのに対して信長が十七歳と年齢的に先行していた事実が決め手になることが明らかになります。キーワードが「天下布武」だと致しますと、どう考えても清兼は信長を立てないわけにはいかないシチュエーションです。あるいはまた、竹千代を渡してしまったら上洛を口実にして三河と尾張を併呑するために攻めてくるはずの今川が三河一向宗門徒武士団を先鋒に立てて(身代わりにすることで)出てこなくなってしまう事態が予測できるだけに、尾張に拉致する以外に選択肢がなかったのです。家康が語った「わしは幼いとき、又右衛門某に銭五百貫で、云々」は肝腎なことは伏せて単に座興のために語ったということなのでしょう。家康としても本当のことを語ってしまうと、事件の背後で三河一向宗門徒武士団総代石川清兼が関係していることに言及せざるを得なくなりますから、しっかり口をつぐんだということなのでしょう。ましてや、三河一向一揆のことを思えば、絶対に明かしたくない真相ではあります。

 さて。

 信秀は竹千代を織田家の菩提寺萬松寺に住まわせたうえで、広忠に今川との手切れを持ちかけるのですが、広忠は取り合いません。

「わが子を殺さんと欲せば、すなわち殺せ。われ一子の故をもって信を隣国に失わんや」

 文献資料によっては、信秀が広忠を「武将として立派だ」と讃えたとする記述を見受けますが、あり得ない解釈です。しかし、竹千代こそ行く末はわれらの主君と心に期するものがある三河一向宗門徒武士団の中には、子を平気で見殺しにする広忠を許せないと思う者が多かったはずです。もちろん、清兼、康正、数正、そして、十歳になっていた本多弥八郎(のちの佐渡守正信)らも同じ思いだったに違いありません。広忠が近臣で一向宗門徒の岩橋八弥に殺害されたのは、天文十八(一五四九)年三月六日のことでした。

 ところで。

 従来は清兼が尾張に連れてきた竹千代をいきなり信秀に渡す恰好で事態の推移を理解し語られてきたわけですが、私たちは竹千代が尾張に連れてこられるに立ち至った動機の部分を前半、信秀が竹千代を人質として扱う後半、双方の中間に大きな乖離があることに気づきました。これでは何のために竹千代拉致事件が計画され、実行されたのか、まったく意味がなくなってしまうではありませんか。この中間の事態の推移こそ解き明かされなければならない事柄なのです。そのため、私たちは天下布武というキーワードの次のキーワードとして「信長で行けるところまで行って、しかるべきときに天下布武の大権を竹千代に禅譲させる」という不文の密約を考えたわけです。清兼と信長のどちらに利益がある密約かといえば、前者の側に決まっておりますから、信長としては不利益に見合う見返りがほしいところです。それが竹千代の身柄の信秀への譲渡であり、信長が信秀に求めた見返りが今川と徹底抗戦することであり、鳴海築城だつたのです。信長を軸とした三つ巴の交渉が「竹千代が尾張に連れてこられるに立ち至った動機と信秀が竹千代を人質として扱う前半と後半の事実の間」に入らないとストーリーが成り立たないのです。

 風が吹けば桶屋が儲かる式の考証になりましたが、解明の端緒となったのが以下の事実です。すなわち、天文十七(一五四八)年一月二十六日、今川義元は三河の国人野々山政兼に大高城を攻撃させるも政兼が討ち死にして目的を果たせず終わったことです。義元は前年に康光を田原城に攻めて討ち死にさせております。攻撃目標を一気に大高城に飛躍させたのは、信秀に奪われた那古屋城を取り戻すぞという意思表示です。大高城および信長が居城にする那古屋城の中間にあるのが鳴海宿で、当時、そこに城はなかったのです。信長がわが身を護るためには信秀に義元と和睦されては困るわけで、逆に戦うとなると那古屋城防衛の見地から鳴海築城が不可避でした。清兼も信長が「禅譲」の密約を呑むことを条件に、仕方なく竹千代の身柄を信秀に引き渡したと考えると、どうでしょうか。

 

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