重要事項書き抜き戦国史(146) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(312)

重要事項書き抜き戦国史《146》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《36》

プロローグ 戦国史Q&A《その36

信長はどのようにしてつくられたのか(その十二)

 

 前回の講座では、今川に攻められたら、どのように手立てを講じたところで勝ち目はないと信長がいったという前野家文書『武功夜話』の記事を紹介しました。ところが、引用した記事はまったく正反対に自信満々の信長を次のように描写するのです。

《この期にのぞんで何の手だてがあろうか。所詮、労あって益なしとは、このことである、と呵々として大笑なされたのであった》

 呵々大笑するというしぐさは当該人物が自信満々だったときに用いる表現ですから、信長に対今川のいくさに成算があったことを意味します。

 これが文章読解力です。

 次に求められるのが文章読解力とワンセットになった検索力で、その土台となるのが「シチュエーション洞察力」です。歴史は結果の集積ですから、必ず原因に対応する結果がどこかの史料に記録されております。しかしながら、残念なことに前野家文書『武功夜話』は信長が何も語ろうとしなかったと次のように述べて、自信満々の原因にまったく言及しておりません。

《いうまでもなく、信長様が意中を何人にも明かさず、また、鷲津・丸根の砦に援軍を派遣しなかったのも、云々》

 云々以下の同書の記述は口述者の推測で、正しくありませんから省きます。鷲津・丸根に援軍を送らない理由こそ「信長が意中を何人にも明かさない」理由でもあるわけですが、当該口述者はまったく気づいていないために、間違った推測をしてしまうわけです。

 しかしながら、太田牛一著『信長公記』に次の記事があるからには、これを見逃す法はないでありましょう。

《信長十六、七、八までは、別のお遊びは御座なし。馬を朝夕御稽古、また、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり。その折節、竹槍にて叩き合いをごろうじ、兎に角、槍は短くそうろうては悪しくそうらわんと仰せそうろうて、三間柄、三間々中(三間半)柄などにさせられ、そのころの御行儀、湯帷子の袖をはずし、半袴、ひうち袋、いろいろあまた付けさせられ、御髪は茶筅に、紅糸、萌黄糸にて巻き立て、結わせられ、大刀、朱鞘をささせられ、ことごとく朱武者に仰せつけられ、市川大介召し寄せられ御弓御稽古、橋本一巴を師匠として鉄砲御稽古。平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。御鷹野などなり》

 信長の十六歳のときこそ天文十八年です。松平竹千代を生駒屋敷に拉致してきた三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼が信長に「禅譲」の条項を飲ませるため「こうすれば今川に勝てる」として授けた作戦のための訓練法とみなすと、すべての謎が解けて参ります。すなわち、これこそ方法論ビジネスが検索力と文章読解力、ならびに構成力を重要視する所以です。天下布武は壮大で極めて過酷なプロジェクトですから、尾張時代の信長は家督相続さえ疑問符がついたことを思えば、わかりきったことです。そんな信長がどうして天下布武を唱えたのか。見えない事実を掘り起こすには、疑問感受性のセンスアップが不可欠ということに気づかないと、考証が正常な軌道に乗って参りません。

 ところが、今川を敵視して戦うほかに選択肢を持たない信長とは異なり、父親の信秀、弟の信行は保身に走りかねないシチュエーション下にありました。信秀に今川と戦わせるためには戦意を高めなければなりません。美濃の斎藤道三との和睦、過去にいわくつきの帰蝶との婚姻がその一つでしたが、もう一つが「竹千代を信秀に引き渡す」ことでした。両様相俟って信秀は今川との対決姿勢を決断します。

 ただし、竹千代を拉致してきた清兼には受け入れられないことですから、信長も骨身を削る譲歩が避けられなくなって参ります。それが清兼の「信長で行けるところまでいって、しかるべきときに竹千代に天下布武の大権を禅譲させる」という方針を信長か呑むことでした。

 このとき信秀は信長にうまいことやられた節があります。鳴海城の築城は天文二十年前後で築城者は天文二十一年に他界した信秀とされておりますが、当然、それらに先んじた着工の時期を考えますと、清兼に唆された信長の働きかけとみるのが自然です。つまり、田楽狭間の一本道に誘い込む囮として大高城とワンセットになるべき鳴海城が不可欠だったのです。信秀の生前に鳴海城に山口教継・教吉父子が入るのですが、死後、今川方に寝返ったため大高城も義元の手に落ちてしまいます。信長は八百を率いて鳴海城の奪回に向かいましたが、果たせず、以来、大高城には今川譜代の朝比奈輝勝、鳴海城には岡部元信が入って、ますます奪回は困難になります。けれども、これはあくまでも結果ですから、清兼と信長と信秀の三者の駆け引きを再現することが最重要で、最優先されるべき事柄です。このことを忘れてはなりません。

 こうして信秀は信長に巧みに誘導されて今川との対決姿勢を明らかにするのですが、信秀はせっかく手もとに引き取った竹千代を生かしきれなかったのですから、残念というほかないわけで、清兼と信長は地団踏んでくやしがります。

 どういうことかと申しますと、信秀が「竹千代を助けたければ今川と手を切って織田方につけ」申し送ったところ、広忠が「わが子を殺さんと欲せば、すなわち殺せ。われ一子の故をもって信を隣国に失わんや」と一蹴されてしまい、天文十八(一五四九)年三月六日、松平広忠が一向宗門徒で近臣の岩松八弥に殺される事件が起きたためです。信秀にとって竹千代は利用価値のない人質になってしまったのみならず、事件を誘発したことにより今川義元に岡崎城を占領するきっかけを与え、城代として朝比奈泰能を送り込まれたうえに、松平家の家臣の半分を駿府に移住させられることになるのですから、清兼の意向に反するものです。宗旨の一向宗は同じでも、岩橋八弥は酒井忠尚の一味と理解すべきでしょう。清兼と信長にとってはまったく想定外の展開です。これからどういうことになっていくのでしょうか。

 

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