重要事項書き抜き戦国史(126) | バイアスバスター日本史講座

バイアスバスター日本史講座

バイアスがわれわれの判断を狂わせる最大の原因……。
バイアスを退治して、みんなで賢くなろう。
和製シャーロック・ホームズ祖父江一郎のバイアスバスター日本史講座。

バイアスバスター日本史講座(292)

重要事項書き抜き戦国史《126》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《16》

プロローグ 戦国史Q&A《その16》

どうして賢弟の信行はバツて愚兄の信長がマルだったのか

(その一)

 

 日常が平らかな池の水のようなものであったとしても、戦国乱世の時代にあっては束の間の静謐でしかありません。ひとたび、小石が投げ込まれようものならたちまち波立ち、波紋となって輪を広げて参ります。一波は万波を呼ぶで、一つの出来事が多くの事件を誘発します。

 今回から新たなキークエッション「どうして賢弟の信行ではなく愚兄の信長でなければならなかったのか」をテーマに据えて、当時の信長の身辺事情を明らかにしていくわけですが、たった一つの疑問で読み解けるほど事は単純ではありません。複数の疑問を揃えて一つ一つ解き明かしながら、風が吹けば桶屋が儲かる式に全体像を目で見えるように再現する必要があります。

 そのためには、こっちが駄目でもあっちがあるぞ、これでいけないならあれでいこう、そういう疑問の抽斗を数多く持つ必要があります。たとえば、並行して解き明かす必要のある疑問の一例「家康はどうして松平氏時代のことを語らなかったのか」を糸口にする手段があります。理屈では記録には残せない不都合な内容が理由にあげられます。

 さて。

 前口上はそれぐらいにして、天文十五(一五四六)年の時点で「信長は十三歳、勝幡城で元服して、林新五郎秀貞、平手中務丞政秀が後見を兼ねた家老として側近を固めた」事実を糸口にして、それが松平氏とどのように連動したか、そのあたりから考えて参りましょう。

 三河一向宗門徒武士団総代石川忠輔が同席家老の酒井忠尚と結託して松平長親の嫡男信忠を忌避、大浜の称名寺に追放して養子に出ていた三男信定を安祥城に迎え入れた永正三年前後にまず着目致しますと、そのころの松平氏と織田氏の関係は良好でした。信定が織田信秀の妹を妻にしていたことが両家の関係を緊密にした理由です。当時は伊勢宗瑞(北条早雲)が一万の軍勢を率いて永正三年と永正五年の二度にわたって東三河に侵入、松平宗家の岩津城を攻め落とし、松平氏宗家が安祥城の松平氏に変わったときです。新宗家の当主を二人の家老が挿げ替えるのですから尋常ではありません。どうしてこのようなことが起こり得たかと申しますと、能登国の守護畠山氏に似たような例があります。

 能登国守護畠山氏の居城七尾城は七尾湾を一望する山の上に三の丸、二の丸、桜馬場、本丸の順で築かれており、本丸には家臣で守護代を兼ねる遊佐統秀が住む遊佐屋敷があって、すぐ上が二層の天守でした。そもそも本丸に遊佐屋敷と称する家臣の屋敷があること自体が、家臣が主君を決める下剋上の現実を象徴的に物語るようなもので、明応六(一四九七)年に名君畠山義統が亡くなると、嫡男義元が型通りに跡を継ぎました。ところが、三年後の明応九年、統秀は義元を忌避して越後に追放、弟の慶致を新しい当主として立てました。ところが、永正三年、一向一揆の攻撃が間近に迫ると、今度は落ち目の管領細川政元と対立する足利義尹に近い義元を迎え入れて復帰させるといった具合に、下剋上を当然のように行いました。

 松平家の場合も、三河一向宗門徒武士団を集団で家臣団に組み込む際に、「織田家とは争わない」ことを誓っています。ところが、信忠が約束を反故にするといいだしたため、家老の二人石川忠輔と酒井忠尚が隠居していた前当主長親の許しを得て、大浜の称名寺に追放したものでしょう。当時、信忠には子がないため、信定を養子先の桜井城から暫定的に安祥城に移すことになったわけですが、正式に当主の座に就いたわけではなかったようです。その後、永正八年に清康が信忠の嫡男として生まれ、大永三(一五二三)年、山中城(医王山城)に在城のまま十三歳で当主の座に就いていることを考えますと、名目上の当主は二十年近い間、不在だったことになります。しからば、事実上の当主はだれだったのかと申しますと、松平信定を傀儡にした石川忠輔と酒井忠尚の二人の家老だったという事実が浮き彫りになります。

 さて。

 信忠の跡を継いだ清康は、山中城から岡崎城に移り、石川忠輔も家老として乗り込みます。清康は信忠の方針を受け継いで安祥城にいる信定と対立し、天文四(一五三五)年、守山崩れで二十五歳の若さで討ち死にしてしまいます。織田方の守山城を攻撃したわけですから、清康は石川忠輔との約束「織田家とは争わない」を真っ向から否定してかかったわけですから、どのみち、無事ではいられなかったのです。

 家康はどうして松平氏時代のことを正確に語り伝えなかったのか。

 その答えというか、結論に言及するときがきたようです。徳川家の記録には残せない不都合な理由は枚挙にいとまがないくらいですが、当座、付随する疑問の答えとしては以上の説明で十分でしょう。

 ただし、織田信秀も三河一向宗門徒武士団総代石川氏の意に反して松平氏の対織田関係に大きな影響を与えた事件を起こします。次回はそのことに言及します。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》