重要事項書き抜き戦国史(123) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(289)

重要事項書き抜き戦国史《123》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《13》

プロローグ 戦国史Q&A《その13》

なぜ、信長に天下布武の大役が付託されるに至ったのか(その十一)

 

 ここで、前々回、後まわしにした登場人物を検索して揃える作業をストーリーに即して試みることに致します。まず、朝倉景豊の謀反と三河一向宗門徒武士団の松平氏への集団仕官のどちらにも関係する人物として、史料事実の上で明らかなのが山科本願寺でラスプーチン的存在の蓮淳の名があがります。

 蓮淳が甲斐敏光に越前工作を唆したのは朝倉氏に対する三十万一向一揆のためのゆさぶりだということです。朝倉氏に圧力をかけて景豊の謀反を助ければよいわけですから、蓮淳は甲斐敏光がどうなろうと関係ない立場です。そもそも景豊の謀反の計画は彼の父親景冬の「朝倉家の本来の当主は英林孝景の七男教景なのだから、彼を当主の座に就けるように」という遺言が動機の一因でした。細川政元に仕える朝倉元景は景豊の舅ですから、蓮淳が陰で糸を引いた可能性は否定できないのです。加えて、次の事情が三河一向宗三ヵ寺を統括する土呂御坊本宗寺に実如の四男実円を送り込む必要性を蓮淳に迫りました。

 当時の三河・尾張・越前の動静を三河一向宗門徒武士団総代石川氏の視点で眺めると、どういうことになるでしょうか。

 まず、事実に語らせることに致します。

 半将軍とまで呼ばれて権勢をほしいままにしてきた管領細川政元が後継問題で蹴躓き、政権の先行きが危ぶまれるとき、かねてより上洛はあるものとして警戒されてきた今川の決断を見極めるシグナルが、今橋城に今川の軍勢が入ることであり、永正の時代を迎えた当時は、今川氏が尾張国に那古屋城を築いたことでした。生駒屋敷が三河一向宗門徒武士団総代石川氏の軍資金の隠し場所だったと致しますと、那古屋城は極めて不都合な存在でしたが、今川が上洛するときに限った尾張守護斯波氏への押さえの城でしたから、今川に上洛の動きがないときは、放っておけます。

 しかし、今川対策として何もしなかったわけではありません。永正元年に織田大和守久長の隠居城として楽田野の真向かいに楽田城が築かれました。織田久長は朝倉宗滴の叔母にあたる人を正室に迎えておりますし、宗滴の父親英林孝景とともに越前守護代であった人物ですから、生没年不明ではありますが、かなり高齢であったのは確かです。

 楽田城は犬山城とともに織田氏の支配地域の北辺にある城です。すでに犬山城があって織田信康(信長の祖父信定の子)が入っていることを考えますと、わざわざ城を築く必要のない場所です。現役としての働きは望むべくもない織田久長のためにだれがこのような場所に巨費を投じて城を築くでしょうか。どうして楽田野である必要があったのでしょうか。

 考えられる理由が生駒屋敷の後詰の役割です。松平信定が正室に迎えていたのが犬山城主織田信康の妹であることを考えても、犬山城を後詰とするには遠すぎます。犬山城を楽田城の後詰と考えれば、逆に楽田野に城を築く意義が強化されます。実はこれが三河一向宗門徒武士団総代石川氏が採用した今川対策なのです。

 石川氏は総代を忠輔が務める時代で、安祥松平氏の当主信忠を大浜の稱名寺に追放していて、代わりに桜井松平氏のもとへ養子に出されていた松平信定を事実上の当主として迎え入れたときです。その信定の正室が織田信康の妹でした。ちなみに信定の娘を妻にしたのが水野信元で、信元の妹を妻に迎えるのが石川忠輔の子で三代目総代の清兼です。当代から次代にまたがって尾張と三河のつながりは人的にも強いものがあったことが浮き彫りになりました。

 さて。

 今川のシグナルに対応して取った三河一向宗門徒武士団総代石川氏の対応パターンが、いわゆる待ち受け戦術でした。三河国では井田野、尾張国では楽田野を戦場になると想定して、いずれも騎馬軍団による足軽軍勢の撹乱戦法を採用しております。ただし、双方には多少の違いがあります。楽田野では生駒屋敷をカムフラージュして今川の攻撃の対象にならないようにするための楽田城で、そこに「オトリ」として築かれたわけですが、井田野の場合は岩津城が今川自身の方針で「オトリ」の役目を果たすことになり、大樹寺が本陣に用いられてしまいました。

 発端は山科本願寺、石山本願寺の時代を通じてラスプーチン的に画策をつづけた蓮淳を共通の登場人物にしたストーリーでしたが、枝葉が繁るにつれて「風が吹けば桶屋が儲かる」式におもいがけない登場人物が姿を見せて、いろんなことが見えて参りました。

 極端な例をあげますと、信長が廃止した小牧山城を拡大拡張して復興して立て籠もる家康に対して、秀吉が楽田野に十万の大軍勢を展開させて対峙した小牧山合戦にまで話が及びます。永正の時代には楽田城に三河一向宗門徒武士団総代石川氏が入り、小牧山に今川氏の上洛軍が入るはずでしたが、正反対の配置で天正の時代に実現することになります。家康が小牧山城を西に拡張した総構えにして復興させたのは、本多佐渡守正信が三河一向宗門徒武士団の一員であったことと無関係ではあり得ません。

 九頭竜川右岸の荒れ野で加賀一向一揆三十万を壊滅させた朝倉宗滴の軍勢一万騎の馬の調達先が楽田野を放牧地に持つ生駒屋敷であったと致しますと、宗滴と織田久長の関係がより明確に浮き彫りになります。

 あるいはまた、前述した山科本願寺のラスプーチン蓮淳が土呂御坊に実円が送り込んだ結果、「加賀一向一揆一千、三河一向一揆二千、河内一向一揆一千」の動員が発令されるに至った事実に着目するとき、現実に動員がどのようにして行われたかと申しますと、河内の動乱は「河内一乱」に終わり、内乱状態を招きましたし、三河一向一揆二千は行く先が越中国に変更になりました。問題は加賀一向一揆一千の動員です。政元と対立する越前朝倉氏が加賀一向一揆一千の領内通過を許すはずがありません。考えられるのは若松本泉寺の背後から能見越えして白川街道に出て、中山道ないしは京鎌倉往還で京に向かう道筋ですが、宗滴とツーカーの楽田城織田久長が許すはずがなく、それがために加賀一向宗を統括する立場にある本泉寺蓮悟は持って行き場を失い、見当違いの能登討伐宣言をして、かえって破滅を免れたといえなくもないのです。

 どういうからくりでそうなるのでしょうか。

 次回もまた「風が吹けば桶屋が儲かる」式の説明をづけます。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》