重要事項書き抜き戦国史(122) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(288)

重要事項書き抜き戦国史《122》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《12》

プロローグ 戦国史Q&A《その12》

なぜ、信長に天下布武の大役が付託されるに至ったのか(その十)

 

 前回は「三河一向宗門徒武士団が本拠を二つ持っていた」という仮説事実に言及しました。どういうことか、説明は実に多岐にわたります。前回は「加越三十万一向一揆による越前進攻の計画に各地から兵力を動員する必要が生じたため、蓮淳は山科本願寺の支配を強めるべく土呂御坊本宗寺に実円を送り込み、三河一向一揆の勢力を越前進攻に参加させようと画策した。しかし、あまり効果的であったとはいえず、結果として三河一向宗門徒武士団本体は越前進攻に加担せず、数千単位の農民のみが越中に参陣したにとどまった」という事実にも言及しました。

 実は二つの出来事の背後には、時の管領細川政元の強い意向が働いていたのです。日本史が時の権力者の動きを根幹として編まれるものと理解致しますと、一向宗という一宗派に関する記事といえども見落とすわけには参りません。

 文亀三(一五〇三)年五月に時の管領細川政元が一門の阿波守護家から六郎(澄元)を養子に迎えて、それまで養嗣子としてきた澄之を廃嫡して以来、澄之派と澄元派の対立が激化しておりました。そうしたさなかの永正三(一五〇六)年一月、政元が敵対勢力の畠山義英を討つため実如に一向一揆の派兵を要請したのがきっかけで、山科本願寺のラスプーチン蓮淳は石山御坊の実賢に一向一揆一千の派遣を命じました。ところが、伝統的に畠山氏の支配地だった摂津・河内の門徒衆が「宗祖が開宗して以来これほどの侮辱を加えられたことはない」と激怒して、石山御坊に実賢を擁立、法主交代を求める騒動に発展しました。騒動鎮圧のため、加賀国から一千人の兵を徴募して下間頼慶を石山御坊に派遣し、蓮能、実賢(十七歳)、実順、実従を捕縛・破門して追放する事態に立ち至ります。加賀国の願得寺院家の実悟は実賢のすぐ下の弟だったことから連座して廃嫡され、自著『実悟記』に「当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたる事にて候」と記録しました。

 こうした事態を受けて同年三月、蓮悟が能登の畠山氏、越中の長尾氏打倒の檄文を発すると同時に、近江から一向一揆が越前に攻め込む事態となり、三十万一向一揆の越前進攻の幕が切って落とされるのですが、近江一向一揆勢は国境で迎撃され、堅田本福寺の明宗の助けを得て撤退のやむなきに至ります。加賀一向一揆軍もまた三十万のうち生きて加賀国に帰ったのは十万そこそこであったといわれます。

 これがいわゆる九頭竜川の戦い、九頭竜川大会戦といわれるもので、朝倉氏は吉崎御坊を破却、ために本覚寺蓮恵と超勝寺実顕は越前の拠点を失い、九頭竜川の敗北の罪を述べ立てて蓮悟の責任を問い、加賀国の本願寺代行寺院と対立します。結果として加賀国本泉寺の蓮悟が法主で五兄の実如に蓮恵の破門を進言して屈服させたのが、のちの享禄・天文の乱と呼ばれる「大小一揆」の原因でした。

 駆け足で説明すると、以上のようになりますが、実は山科本願寺が政元の意向を受けて動員しようとした兵力は「加賀一向一揆一千、三河一向一揆二千、河内一向一揆一千」であったといわれます。河内の兵力動員は前述のようなことになりましたし、三河の兵は三河一向宗門徒武士団がそっぽを向いて一門から実円を送り込む事態になりましたし、加賀の兵にしてからが政元と対立する越前朝倉家が領内通過を許すはずがありませんから、若松本泉寺の背後から能見越えして白川街道に出て、中山道ないしは京鎌倉往還で京に向かうほかなかったことがわかります。

 史料文献で活字を読むといかにも簡単に動員できたように錯覚しがちですが、現実にどのようにして行われたかという観点から説明しようとすると、大変な困難が伴ったことがわかります。ことときの苦い経験が、新編『安城市史・通史編1』曰く《本願寺は全国に所在した門末を組織的に掌握するため、宗主(実如・証如)の血縁・親族である一家衆を各地に派遣して地方教団を管轄させた》動機になったみてよいでしょう。こうしてみたとき、はじめて「当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたる事にて候」という『実悟記』の記事の重みが伝わって参ります。

 戦国の雄・織田信長の時代は石山本願寺との戦いであったといってもよいくらいですから、信長が登場する以前とは申しながら、もっと注目されてしかるべきです。

 それはさておき。

 おかしいというより、面妖なのが本泉寺蓮悟の動きでした。石山御坊の実賢の弟の実悟を養嗣子としておきながら、実賢の討伐にはるばる加賀国から一千もの一揆衆を派兵しております。そうかと思えば、三十万一向一揆軍に参加したようすもなく、一方的に能登討伐を宣言して静観しており、のちのち大小一揆のときには能登討伐の対象であった畠山家俊に援軍を受けているのです。

 前回の講座で「三河一向宗門徒武士団が本拠を二つ持っていたという推測は、極めて複雑なモンタージュを用いないと説明できないようになっている」と述べたのは、疑問がいっぱいの以上の出来事に、以下に述べる史料事実が密接に関わってくるためです。

 すなわち、信州深志城を本拠にする小笠原貞朝が将軍義澄に味方する尾張守護斯波義寛と結んで駿河守護今川氏親を攻めると、当時、貞朝と対立していた小笠原定基が今川氏親と伊勢宗瑞(北条早雲)の要請に応じて三河国に出兵、さらに斯波義寛の居城清須城の東南に那古屋城を築きます。これがのちに、家督相続した直後の信長の居城になる那古屋城の歴史の始まりです。

 一方、那古屋城築城と同時期に、今川氏親が伯父の伊勢宗瑞に命じ、宗瑞は氏親名で一色城の城主牧野古白らに戸田宗光が居城とする二連木城の西半里の至近距離に今橋城を築かせました。

 今橋城はのちに吉田城と呼ばれ、さらに豊橋と名を変えます。今橋城の縄張りは豊川に注ぐ朝倉川を水濠に見立て、豊川の湾曲部に本丸を配置して北面のみ石垣を組み、東西と南面、さらには二の丸と三の丸を土塁と空堀で囲むつくりになっており、当座、二、三万の大軍を収容できる広さを持たせてあったといわれます。

 今川氏が今橋城を豊川という天然の要害の左岸(駿河寄り)に築いたのは、松平氏の攻撃に備えるためでもありますが、戸田宗光のいる二連木城と憲光のいる田原城を分断するのがねらいでした。松平も、戸田も、まさか名門斯波氏を後ろ盾とする敏光が一朝にして滅ぶとは思わなかったでしょう。そこに彼らの油断がありました。気がついたときはすでに今橋城が出来上がっていたわけです。攻撃して奪おうとしても、三河側からの攻撃には滅法防御力を発揮する城でしたから、今川にしてみますと、ここを前進基地として兵糧を蓄え、兵を養い、機に乗じて攻め込み、変に応じて退避するという用兵が可能になって参ります。

 今川の三河・尾張進攻に加賀一向一揆三十万の越前進攻がどのように関係してくるかということにつきましては、まだまだ「風が吹けば桶屋が儲かる」式の説明が必要です。文亀三年に起きた朝倉景豊の謀反と時を同じくして起きた三河一向宗門徒武士団の松平氏への集団仕官のほかに、遠江の甲斐敏光による越前の地下人に対する反朝倉工作を蓮淳が背後で糸を操っていた事実も無視できません。甲斐敏光が越前に気を取られている隙に今川は遠江国を取り上げ、なおかつ、那古屋城、今橋城の築城までしてのたけわけですから。

 次回も「風が吹けば桶屋が儲かる式」の説明をづけます。

 

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