悲しくてさみしい母の日です | こりす工房 | 三重県・四日市/桑名 アイシングクッキー・デコカップケーキ・練り切りアート教室 | JSAマスター認定講師

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JSA
アイシングクッキー認定講師(名古屋1期生)
アイシングクッキーマスター認定講師
デコカップケーキ認定講師
練り切りアート認定講師
スイーツクレイクラフト認定講師
JMFA
日本マシュマロフォンダント協会認定講師
食品衛生責任者

こんにちは
こりす工房のKorisです

母の日ですね


せっかくの母の日

今日のブログは
お菓子の話でもレッスンの話でもなく
先週の月曜日に
79歳で亡くなった母の話です


こうして文章を考えている時間は
自分の気持ちの整理ができて気が紛れます


母が亡くなってから毎日
何度となくやってくるとてつもない喪失感‥

その一方で

6日経った今でも
実はまだ 母は葬儀場で眠っているので
現実として受け止めきれない自分がいます


連休だったからなのか
火葬場の空きが無いとのことで
6日経った 母の日の今日がお通夜です



子供たちと
“ 母の日にマーちゃん(母の呼び名です)に
お花送ろうね” と話ていた矢先の出来事

あと数日遅かったら
母にお花を贈ることができたのに‥


そんな思いで
妹たちと一緒に枕元にお花を供えました
お花屋さんで働いている
妹がアレンジしてくれました




先週の月曜日

実家に着いたときには
母の遺体は警察にありました

急死だったので
家には警察官が三人
実況見分をしに来たそうです

その晩は
前の日に母が作ったカレーを
母がいない食卓で
父と私と息子と娘で泣きながら食べました

玄関が開いて
母が戻ってきそうな気がしました


父は
(母がいつもたくさん作りすぎるので)
“ またしばらくカレーだなと思ってたよ” と
いつものように笑っていましたが

おかげで私も子供たちも

そして

翌日に実家に集まった妹家族もみんな
マーちゃんの最後のカレーを
大事に大事に食べることができました



脚があまり良くなかった以外は
高血圧や糖尿病の持病はありましたが
元気な母でした


お花が大好きで
欠かしたことはありませんでした

その日もスーパーに買い物に行く父に
切り花を買ってきてと頼み

その花をガラスの大きな花瓶に活けて
テーブルに置いたところでふらつき

“骨折して入院でもしたら大変だよ” と言った
父に返事をして

歩いてソファーに向かい
座って郵便物を2通ハサミで開封し
それを読みはじめてすぐ

父が気付いたときにはもう意識もなくて

救急車を呼んでからの
父の必死の心臓マッサージや

救急隊の方のAEDの処置や

病院での心肺蘇生の甲斐もなく
あっけなく亡くなってしまいました



全く苦しむことなく亡くなり
直前まで普通の生活をしていて
やつれることもなく

エンバーミングという
遺体がいたまない処置をしてもらった母は

今も顔色が良くて
本当にまだ眠っているようです

しかも

母が眠っている部屋は
一昨日まで満床で
7体のご遺体が安置されていたので

顔に布がかかって無かったら
病院の大部屋に
毎日お見舞いに行っているような
そんな錯覚をしてしまいそうです


ありがたいことに
普通よりも
お別れまでにたくさんの時間がありますが

その分

その姿が無くなってしまう日が
近づくことが怖くなっていることも事実です



母はとっても豪快な人でした

葬儀場の方から
“枕元に小さなお菓子などを
お供えすることもできますよ” と
お声かけいただき

みんなで考えましたが

母の好きなものは
ビックマックにマックポテト 
チキンマックナゲット

アイスクリームに
よっちゃんイカ(笑)

さすがにお供えには向かないので控えました

お花の横に
カントリーマァムを5つ供えました



明日の告別式

棺にはみんなからの手紙と
たくさんの写真

それから少しだけ
マックポテトとチキンナゲット

あとは大好きでたくさん集めていた
Tweety(黄色い鳥のキャラクター)のグッズから

ぬいぐるみを一つ
入れてあげようと思っています



大学で東京に出てきてから6年間
しょっちゅう実家に泊まりにきていた息子

時には数ヶ月間
一緒に暮らすこともありました

だから

私が知らない母の日常を
息子はたくさん知っていました


“こうちゃんがくるとおかずが一品増える”と
いつも話していた父

息子は本当に本当に
“マーちゃんっ子”で

保育園の頃から
“大きくなったら東京に行く”
“東京でロボット屋さんになる”と
言っていました

今年就職し
息子は東京でロボットを開発する
研究職に就きました

大学では“腕”を
大学院では“脚”を作っていました

母は脚が丈夫ではなかったので
“マーちゃんを助けてあげられるといいね”と
話したこともありました


子供たちの就職が決まり
一番喜んでくれたのは実家の両親でした

娘の就職が津の食品会社に決まってからは
それまでほとんど食べたことのなかった
あ◯きバーを1日2本食べていたそうで

息子からそれを聞いた娘は
とても喜んでいました


息子は医療ロボットの分野に配属になり
内視鏡の研究開発部門に
配属になりました

定期的に内視鏡の検査をしていた母に
伝える前に亡くなってしまいました


初任給で 実家の両親に
プレゼントを考えていたのですが
それも叶うことはありませんでした


新型コロナの心配が無かったら
もっとたくさん
マーちゃんちに行けたのに

息子が最後に会ったのは3/20 

毎年この6年間 
欠かさずに行ってきた
同じ場所での桜の下での写真撮影

マスク姿の写真でした


私は昨年9月
母と最後に交わした言葉も覚えていません



明るくて
友達もたくさんいた母ですが

コロナで外出自粛の中
どなたにも葬儀の日程はお話していません

父と私と子供たち
妹家族と叔父と叔母だけの葬儀です



今は残された父が心配です

もう何十年も毎日
判で押したような
規則正しい生活をしている父は

この数日も
同じ時間に同じことをして
朝から私たちの世話を焼き

長年連れ添った奥さんを亡くした
85歳とは思えない動きをしています


それでも
明け方に具合が悪くなったり
食欲が無かったり‥


本当はもっとここにいたいのですが

東京から三重県に戻ったら
私も娘も2週間は自宅待機で
仕事には戻れません

それを考えると
1日でも早く帰らなければと思います



そろそろ準備の時間です

長々とお付き合いいただき
ありがとうございました



実家には4人の孫の写真がいっぱい飾ってありますが
これは実家の冷蔵庫に16年間貼ってあった写真
たぶん‥母のお気に入りだったんじゃないかな