さだまさし「案山子」その2 | 山野ゆきよし日記

さだまさし「案山子」その2

 「久氐比古(くてひこ)神社」の船木宮司さんにお会いする。私との思いがけない接点もお聞きする。そうでしたが、すっかり忘れていました。申し訳なかったです。

 

 

 相当前になるが、古事記から引用して、「かかし」で文章をまとめたことがある。その時は、この神社ではなく、童謡・唱歌「案山子(かかし)」に絡めてのこと。調べたら、2002年8月11日のブログであった。22年前。

 

 このころは、文化としての日本語とか、童謡・唱歌とか、教科書とか、そんなことに凝っていて、いくつも文章をまとめていた。その一つ。金沢市政に関係ないな。

 

 今、何となく思い出してきたが、以前、船木宮司をお会いした際も、このブログで書いた内容で盛り上がったような気がしてきた。違ったかな・・。

 

 日本で唯一の案山子を主祭神と祀る神社が我が石川県にある。そんな石川県人なら、知っていてもいい話のような気もしてきたので再掲する。

 

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『案山子―文化としての日本語その2―』(2002年8月11日 投稿)

 

 私が講演に際して、好んで取り上げる話。

 

 古事記には多くの神々が登場する。

 

 大国主神(ご存知、国づくりを果たした神様)が、他の神様たちと出雲の海岸で寛いでいると、沖合いから、誰も見たこともない小さな神様が船に乗ってやってきた。大国主神が周りの神たちに聞いたが、誰も分らない。そこで、何でも知っているといわれる、久延毘古(クエビコ)という神様に聞いてみたところ、その小さな神は、神産巣日神(カミムスビノカミ)の子で、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)だということが分った。

 

 早速、神産巣日神に聞いてみると、確かに自分の子である。これも何かの縁だから、大国主神よ、少名毘古那神と一緒にこの国を作り固めなさい。

 

 そこで素直な二人の神様は、忠実に国を作り固められた。ところが、国を作ってしまうと、その小さな神様は、単身、常世の国(海の彼方にあると考えられた不老不死の楽園)に行ってしまわれた。

 

 何とも、神秘的(神様だから当たり前だが)で、魅惑的な神である。

 

 さて、その誰も知らなかった小さな神の名を教えたあの久延毘古は、今では「山田のそほど」という名で呼ばれていると書かれている。さらに続けて、この神は、「足は行かねども、尽(ことごと)に天の下の事を知れる神なり」と締め括られている。つまり、現代語でいう、「かかし」のことである。

 

 この古事記の逸話からは、当時のかかしの役割がどれだけ重要視されていたかが伝わってくる。なるほど、どの神様も知らないようなことでも、何でも知っている神様として、「そほど=かかし」のことが書かれていることからも、明らかであろう。

 

 私が古事記のこの節を読んだのは、恥ずかしながらほんの数年前のことだ。直感的に、童謡の「案山子(かかし)」を思い出し、作詞者を調べてみた。作詞者は、不詳とということらしい。長い長い言い伝えが、私たち日本人の共鳴を生み、やはり、長く歌い続けられた。

 

 私は小さい頃、その始まりの歌詞、「山田の中の一本足のかかし」を文字通り、山間(やまあい)に田んぼがあり、その田んぼの中に案山子が立っている穏やかな様子が歌われたものと思っていた。

 

 ところがそうではなかった。いや、作者は実際にそのような光景に出くわしたのかもしれない。しかし、その詩人は、その情景に吸い込まれそうになりながらも、古事記のあの魅惑的な神たちのことを思い出し、欣然として、「山田のかかし(そほど)」を詩の中に使ったものと思われる。

 

 詩中に古事記を生き返らせたのだ。神様の息吹を与えたのだ。ほぼ間違いないであろうと私は確信している。

 

 果たして、「案山子」は現代の子どもたちの音楽の教科書に載っているのであろうか。子どもたちが自然に耳にするところとなっているであろうか。

 

 童謡の中にも、このようにほとんど意識されることなく、そっと日本の文化がうずもれているものもある。その文化がその歌を歌う人、聞く人の意識の底に沈んでしまうときに、私たちは日本人というものを感じるのではないか。

 

 何気ない言い回しにも文化の深さを感じさせるものこそが、言葉の力といえる。