障碍と障害ー常用漢字の追加について | 山野ゆきよし日記

障碍と障害ー常用漢字の追加について

 5月17日、文部科学省は常用漢字にこれまで含まれていなかった、「茨、媛、岡、熊、埼、鹿、栃、奈、梨、阪、阜」等を追加するとした。いうまでもなく、都道府県名に用いられている漢字である。

 ”熊”や”岡”が常用漢字に含まれていなかったということだけをもってしても、常用漢字ってどうなんだろうかと思ってしまう。まあ、遅きに失しているとはいえ、当然の事であるので肯んずることにする。

 残念な事。今回も、”碍(がい)”が常用漢字に入れられることはなさそうだということである。

 以下、平成16年5月に私がまとめたメルマガから引用する。相当長いので一部割愛する。それでも長い。よくこんなものをまとめたものだ。若かった。

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     「障碍者と障害者―文化としての日本語その7―」
                             平成16(2004)年05月11日

 前回(「交ぜ書き-文化としての日本語その6-」)、1850字に使用が制限された当用漢字表なるものが登場したことにより、我が国語に甚大な弊害が与えられた事を述べた。
(中略)
 現在、私たちが日常的に使用している、「障害者」という言葉は、当用漢字表公布以前は、「障碍者」と書かれていた。「碍」という字は当用漢字表に記載されていないため、その前文に従って、「別のことばにかえる」ことが行われたのである。

 「碍」のかわりに「害」が使われるようになった。
 「害」という字が使われたのは、発音が同じということを主たる理由としてなされたであろうことは、間違いない。

 「碍」は「礙(がい)」の俗字であり、電柱の「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、本字である「礙」も「碍」も、「妨げる」という意味を持つ言葉である。誰かを傷つける、害するという意味はない。あくまでも自分自身にとって、妨げになるという意味であり、「障碍」という意味も、文字通り、自分自身にとって「障り」があり、「妨げ」になるという意味である。

 融通無碍(ゆうずうむげ)『一定の考え方にとらわれることなく、 どのような事態にも滞りなく対応できること』(「広辞苑」)。この四字熟語を一つ見るだけで十分であろう。

 では、「害」はどうか。
 やや、長くなるが、白川静氏の著作を引用し「害」を説明する。(こういう時は、白川氏の著作に限る)

『もとの字は把手(とって)のついた大きな針と口とを組み合わせた形。口は「くち」ではなく、もとの形は「さい(ここには本当は、甲骨文字がくるのだが、どうしてもテキストとしてパソコン上で表記はできない)」で、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形である。大きな針で「さい」を突き破り、その祈りの効果を傷つけて失わせ、祈りが実現することをじゃまするのが害であるから、害には「きずつける、じゃまする、そこなう」の意味があり、そこなうことによって「わざわい」が生まれるのである。』(白川静著「常用字解」(平凡社)より)
 
 「害」という字は、ある対象があり、その対象に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせることを企図した意味を持っているのである。「害悪」「公害」「有害」「危害」等々、いずれも誰かに、「わざわい」も生じさせるものである。「害虫」は、その虫自身に害があるわけではなく、人間の都合で、害があるとされているだけである。自分自身に「わざわい」をもたらす際は、「自害」とする。

 前述したように、「碍」は、「妨げる」という意味であり、「障碍」とは、本人が「妨げ」をもってはいるが、他人を「害」する「障害」とは、全く意味が違うのである。

 ちなみに、「碍」の本字の「礙」は、「石」と「疑」とからなる。この「疑」という字は、「もとは、進もうかどうしようかと自分で迷うという意味」(「常用字解」)であったという。そのことからしても、「礙」も、その俗字である「碍」も、あくまでも自分自身における「妨げ」と理解されるものといえる。

 「障碍者」とは、「障り」があり、自分自身にとって「妨げ」になるという特性を持った人のことをいい、その特性によって他の人との関係が云々されるというものではない。

 しかし、「障害者」としてしまうことは、「障り」があり、他の人に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせる人という意味になってしまう。全く違う意味になってしまった。つまり、「障害」というような造語は、「障碍」の書き換えにはなり得ないものである。それとも、「障碍」とは、他者に危害を加えるものという意味を有しているとでも言うのであろうか。それこそ、差別以外の何ものでもない。
(中略)
 また、時として、「障害」という字を、わざわざ、「障がい」と交ぜ書きにしてある文章にぶつかることがある。前回に記したように、ようやく、少しずつではあるが、交ぜ書きを修正していこうという気風が出てきているときに、全くナンセンスである。要らぬ気遣いをするくらいなら、すっきりと、「障碍」と正していくべきである。

 最後に、最近、ノーマライゼーションという言葉を耳にする機会が多い。
「障害者に、すべての人がもつ通常の生活を送る権利を可能な限り保障することを目標に社会福祉をすすめること。」(大辞林(三省堂)より)を表わすという。

 他者への「わざわい」を生じさせることを意味する「障害者」と名付けることは、既に、その方が、「すべての人がもつ通常の生活を送る権利」を奪われていることに、なりはしないだろうか。当用漢字が公布される以前の、「障碍者」と戻すことこそが、ノーマライゼーションの第一歩といえる。

 「ノーマライゼーションな社会を」と唱える方たちの善意を疑うものでは、決してないが、安易にスローガンを口にするよりは、先にしなければならないことがある。

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 国語の教員でもあった馳浩文部科学大臣の任期中に、”碍”が常用漢字に入れられて、「障害」が「障碍」と正されることを期待したい。

 また、なぜに「障がい」のような表記が我慢ならないのかは、改めて書く。