千曲の霊諍山の石神仏群 | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

朝一番で松本から筑北村へ足を運び、修那羅の石神仏群を探索した。その足で今度は霊諍山へ向かいます。霊諍山があるのは千曲市八幡。田毎の月で有名な姨捨と、善光寺西街道稲荷宿の中間地点である。ここにも修那羅同様の特異な石神仏群が展開している。

 

奪衣婆が摩利支天と並んでる

もしも修那羅から霊諍山へ向かうなら、R403号善光寺街道はやめたほうがいい。猿ヶ馬場峠越えはカーブの連続で疲れるから。麻績ICから姨捨スマートIC経由がベターである。

 

【2024年4月16日(火)その2】

霊諍山の麓に大雲寺があって、そこの大駐車場から登ることになる。↓この案内板は南北が逆さまになってます。山に向かって左の展望園地からも周回できるが、展望はないし遠回りとなる。境内右奥に見える鉄骨階段を登っていくのが正解だ。

霊諍山の由来は、この解説に尽きます。

 

たいした登りではないのに大汗をかかされて、山頂部に到着です。こちらは修那羅の配置とは違って、半円形状に石神仏が並んでいる。その数は110体とも120体ともいわれている。

鳥居をくぐったら、まずこの小さな大日如来がお寺の小僧のように迎えてくれる。

 

右手から反時計回りに見ていきます。これが霊諍山の有名人物、地獄の奪衣婆だ。右手に持っているのは、剥ぎ取った衣服だとか。

ちょっと分かりづらいが、イノシシに乗る摩利支天である。

 

まろやかに彫られた、恵比寿大黒天

 

右は素戔嗚尊で、左は日本武命。 修那羅の石神仏と雰囲気は似ている。

 

吹き抜けの祠の中には、吉野修験の蔵王権現が鎮座する。この変わらぬ躍動感が好きだ。

 

奥州恐山延命地蔵大権現と刻まれている。

 

岩中不動と彫ってあるが、どんないわれがあるのか。

 

左は獅子に乗った文殊菩薩だ。基部に卯年人一代守本尊と彫ってある。右は象に乗っているから、普賢菩薩だろう。どちらも神話的な物語性を秘めている。

 

おなじみの、成田山不動尊。若干漫画風にデフォルメされてるが、画面内に素材が多くて賑やかだ。関東で見る定型とは少し違う。

 

誉田別尊と刻んであるのは、応神天皇のことである。なぜその方が登場するのかは分からない。

 

ついに出ました、猫神様。唯一無二の猫神立像! あまりにも奇抜な顔だ。

こちらのネコも、相当なものである。

 

これぞ典型的な摩利支天である。摩利支天は甲斐駒において、ついに岩峰の固有名詞となってしまった。甲府盆地からも望まれる、あのスカイラインこそが摩利支天だという気がする。

均整の取れた勇ましさにおいては、蔵王権現と双璧を成す。

 

これは滝見観音だといわれるが、どこかに彫ってあるのだろうか。滝壺で洗い物でもしてるみたいだが。

 

北側の一画には石祠が並んでいた。

 

中央に建つ本殿の内部。

別棟には「奇特な方が奉納した」といわれる如意輪観音が祀られていた。ガラス張りに風景が写り込んだ。

 

霊諍山から望む風景。JR篠ノ井線と長野自動車道と、善光寺西街道が通り抜けいている。

 

去り際に霊諍山を振り返る。

明るい参道を下っていった。

 

登り口の鳥居には霊諍山の石扁額があった。名前からして独特で変わっている。

 

下山した所にマンホールがあった。鮭と、あんずの花と実のデザイン。

 

大雲寺駐車場に戻る。城郭のような石垣に、高さが足りんとばかりに垂れ下がる桜から花びらが散り続けていた。

 

北信二日目の旅はつづきます。