糸魚川の御前山集落までやってきました。ここは標高470m、地形図に書かれている人家マークは10軒ほど。
三峡パークから下ってきて、次は市野々集落を目指してゆるく下っていきます。
市野々の石仏群がいったいどこにあるのか、出発の直前までよくわからなかった。それは偶然に、とあるHPで確認することができた。
市野々の中心部の十字路を西へ折れて、次の変則十字路を南へ進む。この辺は細い農道であり、獣除けの電気柵を2ヶ所でまたいだ。
南へ森の中を150m行くと右手に筆塚があり、左手には三十三観音石仏が姿を現した。
ちょうど前を地元の方が歩いていたので、怪しまれないように声をかけて石仏の場所を聞いてみた。親切に教えてもらった。
ここが大将軍の石仏である。大将軍というのはここの字名であり、この石仏群はダイジョーゴとも呼ばれるそうだ。奉納百番観世音菩薩と刻まれている。文久元年(1861)らしい。
これだけの石仏が市野々によく揃ったものだと思う。
観音石仏はどれも素朴でありながら、力強い半肉彫りである。
そしてどれもが個性的である。
よく見ると番号が彫られているものもある。これは十三番。
コケの帽子をかぶった方。
十九番だと思われる。
このお姿には最も惹きつけられた。頭巾の上から笠をかぶったような、お地蔵様だろうか。
絵画的でほほえましい一体だった。
来た道を戻っていくと先ほどの方が「たいしたことはなかったでしょう」と言うが、たいそう素晴らしかった!
最初の十字路まで戻ってからまっすぐ北へ向かっていく。左手に廃屋となったホテル!を見て、さらに500mほど。右手へ戻るように下る道へと入る。浅い谷向こうに大久保集落が見えてくる。
振り向けば路肩のコンクリートに、こんなレリーフがあった。人は住んでいるのだろうか?
小さな川を渡ってススキ原を横切っていくとT字路となり、左手に「羅漢和尚の墓」という標柱が立っていた。間違いなくこの先にあるらしい。
左へ道なりに150mゆくと右手に羅漢和尚の墓が現れる。それは写真で見た通りなのだが、なんとも不思議な形をしている。
羅漢和尚は文化4年に大久保の農家で生まれた。8歳で仏門に入り、一生を托鉢行脚で過ごしたという。江戸時代のそういう生き方がどんなものであったか、想像もつかない。
羅漢和尚は五百羅漢を造立したり、八十八ケ所を写したりと精力的に活動した。
そして最期はこの自然石に経文を刻んで、上部に墓穴を掘って即身成仏を試みたという。
丸いくぼみの一つ一つに経文が刻まれている。
大きなくぼみには不動明王が鎮座していた。
西国秩父板東四国八十八ヶ所供養塔とも刻まれる。五大力の文字も見える。
石造物として国内唯一無二のものだろう。すごい、と言うほかない。
もう少し奥へ進むと、古い墓地のようである。その入り口の祠にも石仏がいた。
真ん中は馬頭観音だ。
大久保ではわずかな耕作地が見られたが、人の住む気配は全くなかった。最後はわずかな集団で里へ下りたのだろうか。ここで暮らすなんてできそうにない。
ここから山道をたどって来海沢へ下ろうと思っていたが、予想通り道はヤブの中に消えていた。仕方なく、さっきの道をまっすぐに水保へ下っていくことに決めた。
水保へ下る道はとても寂しい。車もほとんど通らないせいか、アスファルトがぬめぬめだった。舗装も悪くてランニングで下るには足に良くない。
昔、糸魚川から御前山へタクシーで入った時に、この道を走ったことを思い出した。
ひたすら下ると水田地帯になるが、とても寂しい風景だった。
やがて民家が現れてきて、石仏もあちこちに見かける。
やっと水保観音堂に到着。大同元年(806)に弘法大師が開山したと伝えられる。かつては七堂伽藍の大寺院だった。木造十一面観音は国指定重要文化財で、鉈掘りの美しいものである。
33年開扉の秘仏である。次は2037年の予定らしい。
五間四方の寄棟造り。明和5年の建築。
境内の石仏一体。
御開帳の時にまた来るか。
道をもう少し進むと左手に数体の石仏がある。だいぶ風化した庚申塔だ。
膝の上でサルが拝んでいる、これはなんだろう。
さらに北上すると塚の上に生える巨木が見えてきた。なにか謂れがありそう。
山王森大欅だった。かつてここに山王権現宮があり、樹齢320年。市指定天然記念物となっている。木肌が美しい。
その先で県道221号に合流する。左手にはいくつかの史跡があるが、これは双体道祖神と不動さん。
あちこちから集まってきたもののようである。
これは善光寺式阿弥陀三尊か。
走ってきた道を振り返れば、海川上流部の山々が暮れなずんでいくようである。
いつかまた頸城の山々にも足を運ぶ機会があるかもしれない。
とりあえず今日のところは足もだいぶ疲れてきたし、この風景を最後として市街地へと入っていく。まもなく巨大な、北陸新幹線糸魚川駅が見えてきた・・・
走行距離 28.0km