大学時代に荻窪の喫茶店で知った「冷凍バナナ」。
その店での名称は「クールバナナ」。
これが大好物で、
以来半世紀、食べ続けてきた。
といっても、年がら年中ではなく、
ときどき思い出して、
そのとき一定期間食べるだけ。
という具合だったのだけど。
作るのはカンタン。
皮をむいて、
1本ずつラップにくるんで、
冷凍室に入れておくだけ。
ひと晩おけばカチカチに凍り、
もってこいのデザートになる。
ところが胃がんになって、
胃をほとんど切り取ってのち、
またまた思い出して食べていると、
お腹が痛むようになったのだ。
考えが甘かった。
胃はないし歳はとってきているし、
氷のカタマリのようなものなど、
食べるべきではなかったのだ。
当然すぐに封印した。
最愛の酒だって、
医師から言われてないのにやめたし、
冷凍バナナを食べなくても、
ぜんぜん構わなかった。
それから3〜4年。
永遠の別れを告げたはずだったのに、
先日、無性に食べたくなった。
その欲求を抑えることができない。
そこで、ふた房買ってきて冷凍した。
ひさしぶりの味。
超美味。
しかし1日1本のわりで、
数本食べたところで、
また腹痛が生じた。
それが今朝のこと。
愚かだった。
封印したときより歳をとっている。
内臓が弱っている。
平気なはずがない。
僕のスローガン。
「命より健康が大事!」
日々健康であるために、
いろいろと気をつかっているのに、
封印したものを、
押入れの奥深く仕舞ったものを、
わざわざ引っ張り出してしまった。
「魔が差した」ということだろうけど、
いついかなるときも、
冷静でないといけない。
ほんと、情けない。
片岡義男さんの、
『言葉を生きる』(岩波書店/2012)
を昨日書棚から取り出してきたので、
今日も拾い読みした。
「西伊豆とペン」に出てくる、
1度読んだのにすっかり忘れていた、
田中小実昌さん(1925〜2000)の、
ジョークが面白かった。
西伊豆でペンを拾ったことを英語で言うと、
「ニシ・イズ・ア・ペン」
そのエッセイの、
「拾う」という日本語を、
片岡義男さんは使うことができない、
という興味深い話もやはり忘れていた。
片岡さんの日本語と英語をめぐる話は、
他の本にもたくさん書かれているけど、
いずれも興味深い。
「拾う」というアクションのみを、
英語で言うとしたら「pick up」。
それしかないそうだ。
しかし「拾う」という日本語の中には、
「pick up」と単純に訳すわけにいかない、
〈さまざまな意味の重なり合いが(・・・)
凝縮されて〉いる。
なので「pick up」という、そちらはそちらで、
別の多くの意味を持っている英語が、
〈頭のなかで強く優位を保っている〉彼は、
とても使えないそうなのだ。
〈さまざま意味〉とは、
たとえば「拾う」となると、
そこに置いてあるのではなく、
「落ちて」いないといけないこととか、
「思わぬ拾いもの」
「いまの会社に拾われた」
といった言いかたが、
〈内蔵している意味のニュアンス〉
などを指す。
ということで「拾う」に違和感を感じる彼は、
女性が砂浜で貝を拾ったシーンを表現するとき、
〈彼女はしゃがんで片手をのばし、
その貝殻を指先につまみ取った〉
というふうにしか書けないそうなのだ。
お父さんが英語しか話さなかったので、
英語的頭脳になった片岡義男さん。
日本語の文章を書くことを、
職業とするようになったのは、
学生時代、先輩にすすめられて、
アメリカの小説の翻訳をしたことが始まり。
日本語が万能ではないので、
「もの書き」生活は大変だっただろうけど、
その大変さを日々乗り越えたことで、
唯一無二の存在になった。
僕にとっても特別な存在。