岩国。
撮影日は昨日の写真とおなじ2001/4/22。
画質が悪いので今日も小さいサイズ。
撮影場所は岩国城のある城山。
右手前に錦帯橋。
中央奥に米軍基地。
その向こうに瀬戸内海が見える。
僕はこの眺めが気に入っている。
岩国は生まれ故郷ではないけど、
子供の頃から馴染みのある町。
僕の心安らぐ眺めのひとつ。
錦帯橋のこちら側、
城山のふもとには、
桜が美しい吉香(きっこう)公園がある。
桜の季節でなくても、
僕には聖なる空間。
岩国といえば、
片岡義男さん(1939〜)が思い浮かぶ。
片岡さんは1944年秋に岩国に疎開し、
10ヶ月後に、
広島に原爆が投下された日を迎えている。
その体験のことは、
『言葉を生きる』(岩波書店/2012)
に収録された、
「陽に焼けた子供」
というエッセイで触れられている。
疎開先がなぜ岩国だったかと言うと、
〈祖父の出身地が山口県の周防大島で、
ハワイから帰ったのちに建てた家が
岩国にあったからだ〉。
山口も広島もハワイ移民が多かった。
それだけ貧しかったわけだけど、
僕の実家の近くにも、
ハワイ帰りの人が住んでいて、
その家は「ハワイ」と呼ばれていた。
その人は向こうで成功せずに、
帰ってきたのだけど、
蔑称ではなかったと思う。
そう呼んでいる人たちも、
みんな貧しかったから。
原爆が落ちたときの描写は次のとおりだ。
〈(自宅の前の道を歩いていると)突然、うしろから前方へ、
閃光が走り抜けて消えた。見事に晴れた美しい夏の朝だった。
風景のなかに満ちていた真夏の陽光とは
明らかに性質の異なる、やや黄色味を帯びた奇妙な光が
風景のぜんたいに広がり、歩いていた僕をうしろから
追い越して前方へと走り抜け、空中に吸い込まれるかのように
消えた。静かな朝のなかを、爆発音も爆風もいっさいなしに、
その奇妙な光だけが走っていた。一瞬の出来事だったが、
光の走り抜けかたは、一瞬と呼ぶにはほんの少しだけ
ゆっくりしていた、という記憶がある〉
岩国は広島の爆心地から、
40キロほど離れている。
しかもそのあいだには広島湾の島々がある。
爆発音も爆風もなかったのは当然だろう。
いずれにしてもこの文章は、
貴重な証言だし、
原爆資料館に永久保存する価値があると思う。
ところで片岡義男さんも、
地図で確認しないで、
記憶だけで地理の説明をする人のようだ。
〈JR岩国駅の北側にある駅前広場から、
西に向けて直線でのびていく道路がある〉
この文章は疎開先の家に、
岩国駅からどう行けばたどり着くかを、
説明している最初の部分だけど、
最初からおかしいのだ。
岩国駅周辺の山陽本線は、
南北に延びている。
なので駅の北側は線路だし、
駅前広場は西口にある。
そして西に向かう道路もあるけど、
ここで片岡さんが言っているのは、
そのあとの説明から、
「北へ向かう」が正しいとわかるのだ。
とにかくプロの作家だし、
正確に書いてほしいと思う。
僕は本に出てくる場所を、
地図で確認するのが好きなので、
ここで説明されている道筋も、
GoogleEarthでたどってみたわけだけど、
そのようにすれば、
間違いはすぐにバレてしまう。
それはさておき、
片岡少年は河口に近い、
川沿いに住んでいたのだけど、
河口付近は海が満潮になると、
海水が川に押し寄せてきて、
その押し寄せる力と、
川の流れの勢いが拮抗して、
川はプールのように静止した状態になる。
その静止した川で、
泳ぎを覚えたそうなのだ。
別の川の下流に住んでいた僕もおなじ。
当時は学校にも町にもプールはないので、
子供たちはみんな、
泳ぎは川や海で覚えた。
そのために毎年だれかが亡くなったけど、
あの自然のプールは最高に快適だった。