『リルケ 人と思想161』

 (星野慎一+小磯仁/清水書院/2001)

 

あと30ページのところまで来た。

早く読み終えたい。

 

理由は納得のいかない表現が多いので、

読むのが苦痛だからだ。

 

序論「リルケと星野慎一」を書いているのは、

小磯仁さん(1938〜)。

この人は文章のセンスがない。

読んでいると苛立ってくる。

ま、でも、そちらは読み終えたので、

もうどうでもいい。

 

よくないのはいま読んでいる本文。

そちらは星野慎一さん(1909〜98)が書いている。

 

星野さんは明治生まれなのに、

あるていど現代風にわかりやすく書ける。

しかし明治の人らしい古い表現も多いのだ。

 

〈過言ではないであろう〉

〈ありとしもなき〉

〈集我〉

〈忽焉として〉

〈いく久しき〉

 

僕も古い人間なので、

若い人が読みやすい文章は書けないけど、

それらに関しては、

僕ならもっと現代的表現にする。

 

あと、こういうのも苛立つ。

 

〈これらの書簡が戦時中交戦国の友人同士のあいだに

 交わされたことを、私たちは忘れることができない〉

〈ヨーロッパ文化の底の深さに、私たちはあらためて

 しみじみと心打たれるのである〉

 

なぜ〈私たち〉?

それ、あなたの感想でしょ?

と言いたくなる。

 

 

昨日のテレビの話の続き。

今日は車について。

 

僕は子供の頃、

自分が車を運転する人間になるとは、

まして車の持ち主になるとは、

夢にも思ってなかった。

 

当時の自宅の近くに、

「六間(ろっけん)道路」と呼ばれていた、

道幅6間の広い道路があった。

 

もちろん舗装はされていない。

学校のグラウンドとおなじ、

広島特有の目の粗い砂が敷かれていて、

転ぶと必ずどこか擦りむいて血がにじんだ。

 

長さは200mくらいか。

バス通りと、そのメインストリートと並行して、

国鉄の駅につうじる裏道を繋いでいた。

 

六間道路の下は県境の川から、

町の水田に水を運ぶための用水路。

その上をふさぐ工事をしていたのを、

かすかに覚えている。

 

その道路で小学校の放課後、

近所の仲間とよく遊んだ。

のびのびと遊ぶことができて、

申し分ない遊び場だった。

なぜなら車が通ることはなかったから。

 

バス通りはときおり車が走り抜けた。

たいていマツダの3輪トラック。

バスもタクシーも滅多に見かけない。

 

近所に車を持っている家はなかった。

僕の父親も愛車は自転車。

 

例外は内科医院。

そこの先生は車好きで、

何とルノーに乗っていた。

 

そんな状況だったから、

僕にとって車は別世界の乗り物だった。

 

免許が取れる年齢になっても、

車を運転することに興味が湧かなかった。

高校の同級生には、

軽自動車で通学しているボンボンもいたけど、

触発されることはなかった。

 

免許を取ろうと思ったのは29歳のとき。

それまでの自分にウンザリしていたので、

何か変えようと思った。

で、10年吸ったタバコをやめ、

車を運転することにした。

 

初めて買った車は、

中古のダイハツ・シャレード。

車に詳しい友だちと、

横浜の中古車屋をまわって見つけた。

50万円。

 

いま思うと良い買い物ではない。

あまり走ってないのに、

あちこち、よく故障した。

 

その後、購入した車は2台。

私用で使わせてもらった社用車が2台。

癌になって68歳で仕事をやめるまで、

ハンドルを握り続けた。

 

子供の頃、夢にも思わなかった、

人生が待ち受けていた。