ヘンリー・D・ソローの、

『ウォールデン 森の生活(下)』

 (今泉吉晴訳/小学館文庫/2016)

を読み終えた。

 

読み始めたのが4/8だから、

約1ヶ月かかっている。

上巻は3/9から。

作品全体だと2ヶ月。

 

のろのろペースだけど、

これ以上のペースは、

いまの僕にはむずかしい。

 

読書には午後の時間をあてる。

夕食まで。

その数時間のあいだに昼寝をし、

他の本も読み、

こちらは毎日ではないけど、

絵も描くわけだから、

1日いくらも読めない。

 

 

僕にとっては良い本だった。

たとえば今日読んだ、

最終18章「結論」の中では、

次の言葉が僕の心に響く。

 

〈人は、暮らしを簡素にすればするほど、

 当たり前の法則のより多くを

 素直に受け入れることができます。

 独り居は独り居でなく、貧乏は貧乏でなく、

 弱点は弱点でない、とわかります〉

 

最後の締めの言葉も良い。

 

〈私が、そしてあなたが目覚める夜明けこそが、

 真の夜明けです。そして、夜明けの希望の輝きは、

 1日のほんの始まりにすぎません。

 夜明けの太陽こそ、長く豊かで、喜びに満ちた

 まぶしい1日を導く、希望の明けの明星と

 いわねばなりません〉

 

旅人が土地の少年と交わしたという会話も良い。

 

旅人は沼地を抜けて向こうに行きたいけど、

通れるかどうかわからない。

そこで近くにいた少年にたずねた。

 

〈この沼の底はしっかりしているかね〉

 

少年が〈うん、しているよ〉と頷いたので、

馬に乗った旅人が沼に入って行くと、

馬の腹帯のあたりまで、

たちまち水に浸かってしまう。

あわてた旅人は振り返って、

少年に確認する。

 

〈たしか君は、この沼の底はしっかりしていると

 言ったはずだが?〉

 

すると少年は自信をもって答える。

 

〈うん、そうさ。でも、あなたはまだ底までの

 半分も潜っていませんよ〉

 

 

この本の唯一かつ大きな欠点は、

前にも書いたはずだけど、

訳者が文章の達人でないことだ。

 

〈動物学者。山梨と岩手に山小屋を建て、

 森に暮らす小哺乳類の観察、研究を続けてきた〉

 

と紹介されているけど、

動物学の中だけで生きている人物で、

生きるうえで欠かすことのできない、

文学に深い関心はないのだろう。

 

もちろん、たんに文才がないだけ、

ということも考えられるけど。

 

文章だけでなく、

次のようなことも納得がいかない。

 

今日読んだ「結論」に、

〈この夏はティエラ・デル・フエゴなど

 行ってはいられない〉

という記述がある。

 

そしてその記述には「註」が付いていて、

〈ティエラ・デル・フエゴ〉は、

〈南アメリカ南端の島〉

と説明されている。

 

文脈的に普通に、

「フエゴ島」と訳せばいいと思うのだけど、

なぜ〈ティエラ・デル・フエゴ〉のままにしたのか、

理由がわからないのだ。

 

「フエゴ島」は無名の島ではない。

地理に関心のある人なら誰でも知っている。

「フエゴ島」のほうがよほどわかりいい。

 

そういうところもイラつかせる。

 

 

ま、いずれにしても、

これで『森の生活』は卒業。

次に読む本を決めないといけない。

 

選択肢は4つ。

『サハリン島』(アントン・チェーホフ)

『アメリカ紀行』(チャールズ・ディケンズ)

『サミング・アップ』(サマセット・モーム)

そしてもう1つは、

いま読んでいる『リルケ 人と思想161』に絞り、

リルケと詩の勉強に重点をおく。

 

上3つのどれかを選ぶなら、

相変わらずちょっとずつ読みすすめている、

『エピクテトス 人生談義』と合わせて3本立て。

最後なら2本立てになる。

 

今日は小沢昭一さんの名言ではなく、

その昔「平成教育委員会」でよく耳にした、

言葉を借りるとしようか。

 

「考え中」。