武蔵小金井。

 

 

撮影日は、2000/05/04。

 

その前の年の暮れ、

ふらりと上京したとき、

京王線仙川駅前の、

小さな電気店に陳列されていた、

ソニーのデジカメの、

フォルムの美しさにひと目惚れした。

 

当時住んでいた名古屋に戻って、

大須の家電量販店に、

そのカメラを見に行くと、

やはり惚れ惚れするデザイン。

即、購入した。

 

値段は10万ちょっと。

高かったけど、

その頃はそのくらいなら、

迷わず買えるだけの収入があった。

 

メガネの1万ちょっとの支払いが、

生活を圧迫する今とは大違い。

 

僕が写真を撮り始めたのは、

そのカメラを買ってからだ。

それまで、旅行のときは別にして、

ふだん撮りたいとは思わなかった。

 

写真を見ることのほうは、

嫌いではなかったけど、

写真に強い関心はなかった。

 

上の写真は初期に撮ったものでは、

最も好きな部類に属する。

 

言うまでもないけど、

その頃は撮り始めたばかりなので、

どの写真もレベルが低く、

上手く撮れてもたまたまだった。

 

上の写真も偶然出くわした、

その光景が気に入って、

ただシャッターを切っただけ。

 

たぶん今なら、

もっと形のしっかりした、

雲の出現を待つと思う。

雲に多少でも存在感が出ると、

その写真は断然よくなる。

 

その写真に、

「夏雲の美しき日にひとり見る

 大いなる夢健気なる夢」

という短歌を添えて、

当時開設していたホームページに載せた。

 

その短歌は僕の心の底から、

発せられたものではない。

写真を見て何となく思い浮かんだイメージを、

言葉に置き換えただけ。

 

たんに短歌として検討するなら、

「大いなる夢健気なる夢」

をもっとキレのよい深い表現にしたいけど、

僕は若い頃から、

この世界とは永遠に相容れない半端者、

と思って生きてきたので、

この世界で何かを実現したい、手に入れたい、

といった夢をいだいたことはない。

 

なのでその短歌を僕の芸術にするなら、

「キレのよい深い表現」

にただ単に作り変えるのではなく、

その「七七」の部分を、

僕ならではの表現にする必要がある。

 

写真を撮るようになって、

意外とむずかしいと思ったのは、

画面が傾かないように撮ることだ。

 

右手人差指でシャッターボタンを押す。

そのとき、わずかながら力が入る。

すると力が入ったぶんだけ、

カメラが右下がりになって、

画面が右上がりになってしまう。

 

最初のころ、気にしなかったので、

数多くの失敗作が生まれた。

 

いま使っている、

やはりソニーの2代目カメラは、

画面の傾きがグラフで表示される。

なので間違うことはない。

 

この風景は表示がないと、

傾いてしまいそうだな、

と思うこともたびたび。

有り難い機能だ。

 

もうひとつ、

写真を撮り始めて思い知ったのは、

藤原新也さんの偉大さ。

 

彼のような、見る者の心に沁み入る、

深い写真を撮るのもむずかしい。

 

僕の文章の師匠のひとり、

池澤夏樹さんも自作の写真を、

何枚も著書に載せている。

 

池澤さんの場合は僕と似たようなレベル。

良い写真は撮れるけど、

深い写真は撮れない。

 

 

先日、僕の持っているリルケ関連の本を、

すべて机の上に並べていると書いた。

 

ところがまだあった。

今日リルケについてネットで調べていると、

書棚にある、既読の本が表示されたのだ。

 

『薔薇の沈黙ーリルケ論の試みー』

 (辻邦生/筑摩書房/2000)

 

しばらく辻邦生は読むことはない、

と思っていたけど、

ほんと、人生わからない。

 

リルケを再学習するにあたって、

その本は恰好の教材。