80年代の終わりに住んでいたアパートの、
近くに小さな酒屋があった。
そのころ僕は、
国産の安ワインをよく飲んでいた。
たしかフルボトル290円。
ある時期そのワインに景品が付いた。
1本につき小皿1枚。
その小皿をその小さな酒屋で、
10枚くらいもらった。
小皿は白色で、真ん中に、
淡い緑色が基調の、
モチーフは忘れたけど、
何か可愛らしい絵が描いてあった。
とても素敵な皿だった。
絵の作者は芹沢銈介。
昨日話題にした柚木沙弥郎さんは、
彼の作品に感銘を受けて、
美術作家の道を志した。
素敵な皿だったので大事に使った。
ところがその皿には大きな欠点があった。
もろいのだ。
なので使い込まないうちに、
みんな割れてしまった。
00年代になると、
1枚しか残ってなかった。
その1枚に1筋の亀裂が入った。
真ん中から縁にかけて。
それでも好きな皿だったので、
丁寧に使っていた。
しかしほどなく最後の時が来た。
ある晩その皿を洗っていると、
とくに力を入れたわけでもないのに、
突然、割れてしまったのだ。
その瞬間を覚えていない。
時間が経ったから忘れたのではなく、
割れたときの記憶が最初からないのだ。
割れる寸前でなぜか意識が飛んで、
気づくと皿が真っ二つになっていて、
指から血が流れていた。
たしか左人差し指の付け根あたり。
指の傷は深かった。
しかし夜12時頃だったので、
病院には行けない。
救急車を呼ぶほどではない。
振りかけると血が止まる粉薬があったので、
それを振りかけて包帯で縛って、
床についた。
翌朝、ネットで近所の外科を探した。
すると歩いて10分のところにある、
内科兼外科の医院が見つかった。
しかし直行するわけにはいかなかった。
その朝は歯医者の予約をしていたのだ。
仕方なく指の痛みを我慢して歯医者に行き、
それからその医院にまわった。
医院には午前の受付けが終わる頃に着いた。
なぜ歯医者をキャンセルしなかったのか、
今となっては不思議。
傷口はすぐに縫い合わされた。
たしか3針か4針。
翌日から毎日、消毒のために通院して、
1週間ほどで抜糸した。
その医院の先生は、
以後、僕の主治医になった。
胃潰瘍になったときと、
父親の介護からくるストレスで、
体調不良になったとき、
いちばんお世話になった。
5年前にお腹の具合がおかしくなった。
痛いわけではないけどゴロゴロする。
未体験の症状。
何日か様子見したけど、
治まってくれないので、
その医院に行って胃カメラ検査をお願いした。
翌朝、運よく他の患者の予約が入ってなかった。
入っていると検査室は1つ、
先生は1人なので、
検査してもらうわけにはいかない。
検査のあと診察室で、
写真を見ながら先生が説明してくれた。
直径10センチの腫瘍です。
十中八九、胃がんです。
その場で先生は、
提携している総合病院に電話を入れて、
予約してくれた。
以後、その総合病院の先生が、
僕の主治医になった。
いま、2代目。
たまたま安ワインを飲んでいたこと。
たまたま景品が付いたこと。
その景品が素敵だったことも、
その日時に割れたことも、
その医院が見つかったことも、
すべてたまたま。
人生、そんなものだろうけど、
何かひとつ違っていれば、
もう僕はこの世にいないかも知れない。
夕方、湯船に浸かっていて、
そんなことを思った。