最近、食事のときは、

もっぱら「アバタロー」チャンネルの動画を観ている。

 

動画の選択は気の向くまま。

関係の深いものを、

続けて観たほうが勉強になるに決まっているけど、

居並ぶサムネイルを眺めて、

そのときセンサーが反応したものを選んでいる。

 

今日は、

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上下巻

 (杉浦明平訳/岩波文庫/1954、1958)

について解説している動画に反応した。

 

観終わって久しぶりにその本を、

書棚から取り出してきた。

開くのはたぶん10年ぶりくらい。

いや、もっと久しぶりかも。

 

最初に読んだのは大学生のとき。

もうどのページも日に焼けて茶色くなっていて、

古色蒼然としたおもむき。

 

あちこち拾い読みしていると、

いくつかの文章に、

ふたたびセンサーが反応した。

いま自分が思うことを述べたくなる。

 

〈人間たちの作品と自然のそれとの間にある比は

 人間と神との間にあるそれに等しい〉

 

これは絵についての見解。

文章的には2つの〈それ〉が別の意味なので、

すんなりと読みとれないのが難点。

訳を工夫してほしいけど、

それはさておき、

レオナルドが言いたいことはよく理解できる。

 

結局、人間の描写力なんて、

タカが知れているのだ。

 

たとえば自然のものというか、

「タテ」「ヨコ」「奥行き」で成り立っている、

風景や人物や静物を、

「タテ」「ヨコ」だけの、

キャンバスや画用紙に客観描写するとき、

「奥行き」が表現できないと絵にならない。

 

絵を学ぶにあたって、

それができるかどうかが、

ひとつの大きなハードルになるわけだけど、

厳密に言えば、

人間には「奥行き」など表現できないのだ。

 

レオナルドやピカソのような達人だって無理。

観る人に奥行きを何となく感じさせる。

そういうふうにしか人間には描くことができないし、

完璧な描写力を獲得することなど不可能なのだ。

 

人間は永遠に自然に到達することはできない。

なんて言うとキザったらしいけど、

とにかく人間はその点でも「不完全」と言える。

 

 

〈君もし健康たろうと欲せば次の規則をまもりたまえ〉

と述べていくつか規則を挙げている。

最初の規則はこちらだ。

 

〈食いたくないのに食うなかれ、軽く食べよ。〉

 

レオナルドも少食を推奨しているのが面白いと思った。

ただそのあとに、

〈食事をはずさず、また空腹をかかえているなかれ。〉

とあるので断食までは薦めていない。

 

 

〈おお寝坊ものよ、眠りとは何であるか? 眠りは死に

 似たものである。おお、それではなぜおまえは、

 生きながらいやな死人に似た眠りをむさぼるのをやめて、

 死後に完全な生き姿をのこす作品をこしらえないのか?〉

 

こちらの言葉は動画でも紹介されている。

僕には耳の痛い言葉だけど、

僕は文才的にも体力的にも、

このブログを書くのが精いっぱい。

 

毎日襲ってくる睡魔に負けてしまうのも、

ある程度は仕方ないと思っている。

 

 

女子サッカーがパリ五輪の出場権を得た。

こないだも書いたように、

レジーナが頑張って、

広島から女子サッカー人気が、

日本じゅうに広がっていく。

僕的にはそれが理想。

 

その「無謀な」理想が現実になるためには、

五輪出場は欠かせない大きな要素。

その個人的観点から、

勝って良かったと思っている。

 

大きな声では言えないけど。