大きな地震があったと思ったら、
大きな航空機事故。
大変な年の始まりだ。
どちらの映像も観た。
地震のほうは僕が四街道駅近くの、
前の住まいで体験した、
東北の震災より揺れがヒドい印象。
あれだけ揺れると、
ただ地面の上に、
乗っかっているだけのような、
ビルが倒れても不思議はない。
長年住み慣れた家が倒壊したり、
身近な人が亡くなったりして、
精神的に不安定になる人も当然出る。
不幸中の幸いは、
大きな津波に見舞われなかったことだけど、
気になるのは、他でもない、
被災した人たちに、
国や県の上に立つ連中が、
心ある救いの手を、
差しのべてあげられるのだろうか、
ということ。
この国は地震大国のうえに水害も多い。
いいかげん、迅速で万全な、
対応ができないと情けない。
東北の震災のとき、
わが家は食器棚と本棚が倒れ、
後片付けが厄介だったけど、
それはさておき、
僕がいちばん困ったのは、
震災後しばらく、
スーパーはひらいていても、
売っている食品が少なかったことだ。
覚えているのは、
納豆とミネラルウォーター。
陳列棚が空っぽということが多かった。
もうそんな景色は見たくない。
今日の言葉。
〈夜は穴掘り作業には向いているけど、
朝のほうが広角レンズで物を見られる〉
(『死に急ぐ鯨たち』安部公房/新潮社/1986)
今日も安部公房の著書から。
発売直後に読んだときから、
脳裡に刻まれている言葉。
このブログは彼のその見解に従って、
夜、下書きし、
翌日の朝、見直して仕上げている。
毎日書くブログを、
少しでもマシなものにするには、
そのやりかたしかないと思うのだ。
ただ僕の場合、
朝はたしかに〈広角レンズ〉になっているけど、
夜は〈穴掘り作業〉とまではいかなくて、
思いついたことを、
いちおう全体の流れは意識しているものの、
ひたすら言葉に置き換えている、
という感じなので、
朝の作業が骨の折れる日が多い。
もうひとつ、森永卓郎さんの話を今日も。
森永さんと、経済評論家ではないほうの、
次男とのやりとり。
次男「飯を食わねぇと体なんか持たないんだ、ガンガン食え」
森永「食えないので無理だ!」
次男「そういうこと言ってるからダメなんだよ、食え!」
(「スポニチ」より引用)
このやりとりの後、
森永さんは雑煮と汁粉を無理して食べて、
体調を崩したそうだけど、
まず言えることは、
病気になって食べられなくなると、
どうすることもできないということを、
次男がまったくわかってないということ。
そして次男が認識不足なのは、
健康な人が病人のことをわかるはずもないので、
仕方ないということ。
しかし仕方ないといっても、
健康な人と病人のあいだには、
深い溝があるということを、
いい大人が理解してないのは、
とても賢明とは言えないし、
森永さんが無理して食べたのは、
「父親の威厳を見せようと」したから、
とのことだけど、
それも賢明ではない。
僕はこの記事を読んで、
こんなやりとりが生じてしまう親子関係も、
家族というものも、
本当に嫌だなとあらためて思った。
僕が特殊なのだろうし、
こういうことを言うと、
多くの人は笑うだろうけど、
配偶者や子どもたちに囲まれて暮らしている人は、
よく真っ当な感覚を保てるものだ、
と僕は感心するのだ。