こないだ話題にした、

『大江健三郎 同時代論集』(岩波書店)

の第1巻(1980)に、

「危険の感覚」(初出『新潮』1963年8月号)

というエッセイが載っている。

 

そこで大江さんは、

〈ぼくという作家にとっていちばん大切な、

 そして最も基本的な態度とは、

 それは危険の感覚をもちつづけることです〉

と述べている。

 

〈危険の感覚〉という言葉は、

W.H.オーデンの詩、

「見る前に跳べ」(Leap Before You Look)

から来ている。

そのくだり。

 

The sense of danger must not disappear.

The way is certainly both short and steep.

However gradual it looks from here.

 

〈危険の感覚は失せてはならない

 道はたしかに短かい、また険しい

 ここから見るとだらだら坂みたいだが。〉(深瀬基寛訳)

 

そして江田島の旧海軍兵学校で、

特攻隊員の遺書をたくさん見た大江さんは、

〈危険の感覚〉を持っている人の手紙と、

持ってない人の手紙があるのに気付き、

後者について次のように述べている。

 

〈それらは死をまえにして危険の感覚を、

 肺葉を切除するように切りすててしまった

 若者たちの、愚かしく弛緩した、

 それゆえにこそなお悲惨な手紙だった。〉

 

〈目前に確実な死をひかえた恐怖の時に、

 なお危険の感覚をもちつづけることが

 どのような意味をもつか? 

 というならば、ぼくはそれが人間の威厳

 ということではないだろうかと思うのである。〉

 

勉強になった。

〈危険の感覚〉を持って生きている人は、

本当に立派だと思う。

 

しかし僕はそういう人にはとても成れない。

 

いま僕の置かれた状況も、

〈目前に確実な死をひかえた恐怖の時〉

に違いないけど、

僕は美術家の落ちこぼれ、

そして〈愚かしく弛緩した〉、

虫ケラのような世捨て人。

 

〈恐怖〉なんて感じないし、

〈人間の威厳〉とも無縁だし、

虫ケラのまま死ねばいいと思っている。

 

その思いを再確認もした。

 

 

オーデンの名前が出たので、

『オーデン詩集』(沢崎順之助編/沢崎他訳/思潮社/1993)

もひらいてみた。

 

「感謝のことば」(1973)

をひさしぶりに読む。

 

オーデンが自身の人生を振り返って、

ハーディからゲーテまで、

大きな影響を受けた人たちを、

受けた順に名前を挙げて、

感謝の気持ちを表している詩。

 

〈あなたがたなしではどんな下手な詩でも/

 1行だって書けはしなかっただろうと/

 わたしはいましみじみ思っている〉(沢崎訳)

 

と結ばれている。

 

僕について言うとすれば、

個人的なことを書く場合、

いつも客観性を欠く表現になってしまうので、

浅学非才、とりわけ非才であることを、

身に沁みて感じているのだけど、

それはさておき、

いま曲がりなりにも、

毎日このブログが書けているのは、

まず誰より、思春期に最初に出会った、

石川啄木、吉井勇、芥川龍之介の、

3先輩のおかげだと思う。

 

そのあとも影響を受けた人は大勢いるけど、

それを言い出すとキリがないので、

今日は書かない。

 

 

代わりに夕食のメニューを、

ひさしぶりに書きたくなったので書こう。

朝は相変わらず「煮干し焼飯」。

 

【夕食】

・干し芋

・ダイコン(+チリメン+カツオ節)

・柿

・トマト

・キュウリ(+金山寺味噌)

 

最近は朝夕、柿を食べる。

この時期、いちばん美味しく感じる。