『言葉と物』の冒頭の「序」は11ページ。

繰り返し読んだ。

 

まだ次の第1章に進めない。

進む自信がない。

 

要するに「場慣れ」してないのだ。

たとえばこんな言葉。

「布置」

ふだん使わない。

 

いちおう意味はわかるけど、

正確にわかっている、

とは言えない。

 

 

このブログを書くとき、

使い慣れた言葉でも、

念のために広辞苑をひくことは、

しょっちゅうある。

 

文章を書くと、

意味が正確にわかっていて、

辞書やネットに頼らずに、

使いこなせる言葉、慣用表現などが、

いかに少ないか思い知る。

 

70年以上も生きて、

バカすぎるんじゃないの?

 

思い知ったときは、

そんな声が聴こえる。

何度聴こえたか知れない。

 

 

それはさておき、

「布置」(ふち)は広辞苑によると、

〈物を適当に配置すること。また、そのありさま。〉

 

やはり「いちおう」程度しか把握できてない言葉は、

調べないといけない。

その程度だったことがよくわかった。

 

そのように使い慣れない、

あるいは意味のわからない言葉を調べたり、

むずかしい文章は何度も読んだりして、

自分の頭を「フーコー・ワールド」に、

馴染ませていく必要がある。

 

第1章はベラスケスの名画、

「ラス・メニナス」の話なので、

早く読みたいけど、

明日も馴染ませる作業になりそう。

 

 

昨日に続き、河出版日本文学全集の、

「近現代詩歌」の巻から。

 

編者の池澤夏樹さんは、

巻末の「解説」に次のように書いている。

 

〈詩の場では、多くを書いて思いを語りたい

 という欲望と、短く引き締めて美的価値を高めたい

 という衝動が闘っている。〉

 

特別な見解ではないけど、

目標は「詩的散文」という、

スローガンをかかげている僕も、

毎日その苦しい闘いをしているので、

引用してみたくなった。

 

 

あと、こちらのほうが重要だけど、

付属の「月報」(2016/9)の、

アーサー・ビナードさんの、

池澤さんの詩の選びかたへの、

痛烈な批判が印象的。

 

ビナードさんは次のように書いている。

 

〈日本の「近現代史」を見つめるなら、

 長崎で引き起こされたプルトニウムの核分裂と、

 広島で引き起こされたウランの核分裂と、

 福島で引き起こされていた両方の核分裂による

 終わりのない放射能汚染は、とても避けて通れない。

 だったらそれらの現実をつかみとった

 優れた詩歌を選んだらどうか?〉

 

そして〈峠三吉の「死」がまっさきに頭に浮〉かぶ、

と候補作を挙げている。

 

なるほどと思った。

 

「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」

が抜けている「近現代詩歌」集は、

いくら池澤さんが、

〈これまでに読んで親しんできた詩を

 選んだと言うしかない。いわば1人の

 凡庸な詩の読者の記憶にある詩篇〉

と弁解しても、

それは通らないという感想を、

僕も持たないわけにいかない。

 

「死」がどんな詩だったか思い出せなかったので、

ネットで探して読んでみた。

 

ビナードさんが言うように、

そのヘビーな詩を選ぶべきだと思ったけど、

そうしなかったということは、

結局のところ池澤さんにとって、

「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」は、

言ってみれば、

「頭」の問題であって、

「心」の問題ではないのかも、

という気もした。