富士山の写真を載せたくなった。
撮影したのは2014年の12月。
場所は河口湖畔。
昨日、中央線の話になったので、
そちら関係の話が、
他にないかと考えていたら、
中央線・富士急と乗り継いで、
河口湖に行ったことがあるのを思い出した。
当時、癌になるまで籍を置いていた、
職場で働いていたのだけど、
仕事にウンザリしていて(僕はどんな仕事でもウンザリする)、
気分転換に富士山を見たくなったのだ。
富士山は、その半年前に引っ越したばかりの、
いまも住んでいる「新居」からも見えるけど、
小さすぎて物足りなかった。
その頃は元気だった。
朝早く起きて通勤電車で東京駅へ。
中央線に乗り換えて高尾へ。
そこでまた甲府だったかもっと遠方だったかに行く、
電車に乗り換えて大月へ。
そして富士急で河口湖へ。
河口湖に着いても疲れはなかった。
中央線は下りなのに、
八王子までガラガラにはならなかった。
やはり東京はとんでもない大都会だと感心した。
気分転換はうまくいった。
ほうとうを食べたり、
ロープウェイで高台に登ったり、
湖畔を散策したり、
気ままに時間を過ごしたのだけど、
いろんな場所から雄大な富士山を眺めていると、
目論見どおり、
自分も人間社会も思いきり小さく感じて、
もっと大きく構えるべき、
という気持ちに切り換えることができた。
大きく構えるなんて、
わかりきったというか、
当たりまえすぎることではあるけど、
やはり富士山のような、
圧倒的な存在と間近で向きあうのは、
普段あり得ない、
言ってみれば「究極」の体験。
余分なものがいっぺんに剥ぎとられる。
僕は南や東からしか富士山を見ることがないので、
北側からというのも、
より「究極」になった。
上の写真に関しては、
逆光なので仕方ないかも知れないけど、
暗くなりすぎてしまった。
あと、何秒か早くシャッターを切っていれば、
画面右から左に動いていた船が、
もっと良い位置に写っていたかも、という気もするし、
これはこれでいいかも、という気もする。
先日、片岡鶴太郎さんのブログを見ると、
上の写真のもう少し右の位置から、
富士山の絵を描いていて、
写生中の彼の姿や、
完成した絵の写真が掲載されていた。
彼の描写の魅力のひとつは、
効果的なタッチにある。
彼は金魚の絵を、
ブログによく載せているけど、
透明水彩の「1発決め」のタッチが、
ほんとうに素晴らしいと思う。
つまり彼は、数少ないタッチで、
モチーフの「本質」に迫る表現ができる人だけど、
その絵に関しては、
タッチを重ねすぎというか、
絵をイジりすぎていて、
彼らしい「切れ」がないのだ。
ふつうイジりすぎると、
いちばん良いカタチで終わることができても、
「努力賞」みたいな絵になってしまう。
限界を超えたと感じたら、
破棄することだ。
ま、そう言うと言い過ぎかも知れないけど、
その絵を見ていて、
破棄したほうがよかったかも、
と思った。