膀胱に管を差し込んだままひと晩寝た。
問題なかった。
やれやれ。
1日すごしてみると、
どんな動作をしても、
昨日のような強い痛みは感じない。
咳をしても。
昨日は異物だった管が、
体に馴染んできたのだろう。
明日には体ともっと一体化するかも。
馴染んできたからといって、
ずっとこのままで、
なんてことはもちろん思わないけど、
昨日書いた「先行き不安」という心境では、
とりあえずなくなった。
やれやれ。
『パリの手記』を読み終えてから、
その気はなくなっていたのだけど、
また辻邦生を読みたくなった。
わが書棚には、
まだほとんど目を通していない、
新潮社版初エッセー集全5巻がある。
①「海辺の墓地から1961〜70」(1974/¥1,000)
②「北の森から1971〜72」(1974/¥1,000)
③「霧の廃墟から1972〜73」(1976/¥1,100)
④「季節の宴から1974〜75」(1979/¥1,300)
⑤「風塵の街から1976〜77」(1981/¥1,200)
わざわざ定価を添えた理由はひとつ。
神保町の古書店にて、
¥4,000で一括購入しているから。
裏の見返しに古書店のシールが貼ってあり、
初版、全5冊、ヤケシミ有、4,000・・・
なんて書いてある。
買った時期が特定できればいいのだけど、
たぶん2,000年代、としか言えない。
特定できないので間抜けな話だけど、
思いつきで書いてしまった。
ま、でも、多少傷みがあるとはいえ、
全巻揃いの初版が昔の定価より安いのだから、
作品も作家も不人気ということは言える。
実際、今どき辻邦生を読む人なんて、
僕以外にいないかも知れない。
いずれにせよ、あたりまえのことだけど、
よほどの作家でないと、
本人が亡くなると、
その人にまつわる何もかもが、
たちまち世の中から消えてしまう。
辻邦生をまた読みたくなったのは、
『パリの手記』に浸っていた、
長い日々の充足感を、
少しでいいので取り戻したくなったから。
言い換えれば、いま僕には、
辻邦生的養分が必要な気がするのだ。
「初エッセー集」を、
ほんの少しずつ読もうと思っているのだけど、
ほとんど目を通してないので、
全部読まないと勿体ない、という気持ちはない。
それを言い出すと、
勿体なく感じる本は他にもたくさんある。
「初エッセー集」といっても、
本当に「初」と言えるのは、
第1巻だけだろうけど、
たぶん僕はいま、辻邦生的養分、
とりわけ若い養分を、
吸収したくなっているような気がする。
たとえば今日読んだ「海辺の墓地から」で言えば、
〈私たちの凝固しがちな、書斎臭い、分析的な思考に対して、
それに爽やかな風を吹きこみ、花の香りや、空の青さを
もたらすのは、まがうかたない「生」そのものなのだ・・・。〉
その文章に感じとれる彼の「若さ」、
もっと言えば「青臭ささ」を取りこんで、
自分を活性化させたいのだと思う。
メインはダレル。
陶淵明と辻邦生がサブ。
しばらくこの構えでいく。