10代の多感な時期、

心に焼きついた言葉がいくつかある。

 

それらの言葉はいわば人生の原点。

その後の人生を、

それらの言葉の奥にある、

共通した「核心」に向けて導く。

 

ときに邪心が生じて、

「王道」から外れかけても、

必ず連れ戻してもくれる。

 

それらの中から、

今日引用したくなったのは、

高校生のとき知ったリルケの言葉。

『陶淵明全詩文集』(林田愼之助訳注)を、

読んでいて思い立った。

 

〈貧は内面からの偉大な輝き〉(『時祷詩集』秋山英夫訳)

 

思い出すキッカケとなったのは、

「詠貧士(貧士を詠ず)七首」の「其五」の4行。

 

豈不實辛苦 豈(あ)に実(まこと)に辛苦ならざらんや、

所懼非飢寒 懼(おそ)るる所は飢寒(きかん)に非(あら)ず。

貧富常交戰 貧富 常に交(こも)ごも戦うも、

道勝無戚顏 道勝って戚顔(せきがん)無し。

 

貧乏は辛く苦しいけれども

恐れるのは飢えや寒さではない。

清貧に安んじるか富貴を求めるか

常にこの2つが心のなかでせめぎあって、

道が勝ったとき顔から憂いは消えるのだ。

 

※〈戚顔〉は憂い顔のこと

 

僕はその4行を読んで、

後ろめたい気持ちになった。

言い換えれば、

もっと清貧に徹しないといけない、

という健気な気持ちに。

 

「豊かさ」からできるだけ遠い生活を、

自分としてはしているつもり。

しかし勝手な思い込みにちがいない。

もっと遠ざかれるはず、と思ったのだ。

 

この先、もう長くない。

人生最後の最後に、人生でいちばんの、

清貧で晴朗な日々を送りたい。

分不相応だけどそれは僕の大きな願い。

 

ということでリルケの言葉と合わせて、

書いておきたくなった次第。

 

 

おなじ「詠貧士 七首」の中から、

もうひとつ引用したい言葉がある。

「其一」の冒頭の4行。

 

萬族各有託 万族(ばんぞく) 各々(おのおの)託(たく)する有り、

孤雲獨無依 孤雲(こうん) 独(ひと)り依(よ)る無し。 

曖曖空中滅 曖曖(あいあい)として空中に滅し、

何時見餘暉 何(いず)れの時か余暉(よき)を見(あらわ)さん。

 

万物はそれぞれに身を寄せるところがあるのに、

ひとりぽつんと浮かぶ雲だけはよるべない。

それはやがてはるかかすんで大空に消え、

2度と名ごりの輝きを見せることはない。

 

※〈萬族〉はこの世のすべての物

 〈孤雲〉は1つ空に浮かぶちぎれ雲。昔から貧士に喩えた。

 〈曖曖〉はおぼろに霞んでいるさま

 〈餘暉〉は夕日の光、または残照

 

こちらの言葉も僕の襟を正してくれる。

僕も紛れもない「孤雲」。

悠々と空を泳いで消えて行きたい。

 

 

カープ新井監督の采配に関しては、

まだ様子見。

というか次第に書く気がなくなってきている。

 

小園選手が1軍にいないせいかも知れない。

いま1軍にいる、菊池選手以外の、

日本人内野手は小物かロートル。

やはり小園選手がいないとつまらない。

 

しかし、その小園選手、2軍でもパッとしない。

頭の中を整理したほうがいいような気がする。

 

斉藤優汰投手の実戦デビューとなった、

紅白戦の投球を何度も再生して観た。

 

2三振に投ゴロと結果も最高だったけど、

何よりストレートの力強さが印象的。

彼は「野球バカ」タイプではない、

明晰な頭脳の持ち主。

タテヨコの変化球も投げられる。

とんでもない投手になるかも、

という気持ちに初めてなった。

 

中村貴浩選手の支配下昇格は、

絶好のタイミング。

彼の場合はキャンプのときから、

ずっと期待している。