今日の言葉。
〈人間は成長するに従って軽くなる〉
横尾忠則さんの今日のTweet。
そのあと、
〈作品も同様。苦悩から生まれる作品は見る者の心を重くする。
重い作品を好む者は、その者の苦悩と比例する〉
と続き、軽い美術作家として、
ピカソ、キリコ、マチス、デュシャン、ウォーホル、
を挙げている。
Tweetは理解できる。
僕のイメージを思いつきで言うと、
人は思春期の頃から、
世の荒波に立ち向かうために、
あれやこれや身につけ始める。
人によっては分不相応な「重装備」になったりもする。
しかしそのままだと身動きが取れなくなり、
その重みに押しつぶされることもある。
そこでその色々と身につけたものを整理し、
大人になってから背負い込んだものも選別しながら、
徐々に自分に合うものだけにしていく。
より身軽に、シンプルに。
なかには軽装を通り越して、
生まれたままに近い姿になってしまう、
仙人のような人もいるだろうけど、
成長とはそんな感じだろうか。
ま、あくまでも1つの例だけど。
いずれにせよ、成長する人は、
横尾さんの言うように、
〈軽く〉なっていくと思う。
しかし僕は、横尾さんの挙げた、
その5人の作品はとくに好みではない。
軽さゆえの魅力はあるけど、
「深い味わい」がないからだ。
ピカソについて言えば、
重いかも知れないけど、
若い頃の具象作品のほうが、
僕には見ごたえがある。
とくに10代の、ローティーンの頃に描いた、
デッサンほど痺れる作品はない。
5人のことはさておき、
僕もその昔は現代美術に惹かれたものだ。
名前を挙げればキリがない。
新しい表現を見いだし、
時代を切り拓いた多くの作家に、
畏敬の念をいだいた。
しかし今は、いわゆる現代美術の範疇に分類される、
「深い味わい」のない作品に、
心底惚れ込むことはあり得ない。
僕は17歳のとき美術の勉強を始めた。
そのころ何の知識もない僕は、
言ってみればピュアな感覚だけで、
目に触れる作品を振り分けて、
最もセンサーが反応する、
ボナールや浅井忠に心酔していた。
そして今、彼らの作品が最も心ときめく。
あちこち経めぐった長い旅路の果てに、
美術の世界の入り口に立って、
眺めていた世界に帰還したかたち。
「三つ子の魂百まで」という言いかたもできるし、
身につけたものをすべて脱ぎ捨てて、
〈軽く〉なったとも言えるだろう。
しかしそれにしても、横尾忠則さんは、
この秋に東京国立博物館で個展をひらくようだけど、
作品はすべて去年1年のあいだに描いたとのことで、
100号以上のものを100点とは恐れ入る。
週2点なんて信じられない。
何も考えないからそれだけ描ける、
と横尾さんは言っているけど、
描き始めればどうすれば「絵」になるかわかっているので、
いちいち考える必要はないとはいえ、
真っ白なキャンバスに向かったときに、
普通はどんな絵にするか最小限のイメージが要る。
なんにもなしに描き始めるということだろうか。
天才の創作の秘密は僕にはわからない。