『パリの手記』に知らない言葉が出てきた。
「ザルツブルグの小枝」
さっそくネットで検索してみる。
スタンダールが『恋愛論』の中で、
恋愛で相手を美化する心理を例えた言葉とのこと。
つまりこういうことだ。
ザルツブルク(ブルクが現在の表記)は、
古くから岩塩の産地。
その岩塩の「塩坑」に枯れ枝を投げ入れると、
塩の結晶がくっついて、
無数のダイヤモンドが輝いているように見える。
実際は塩なのにダイヤモンド。
スタンダールはそのことを、
その心理に例えているのだ。
スタンダールの文章も引用しておこう。
〈ザルツブルクの塩坑で、寒さのために落葉した1本の小枝を
廃坑の奥に投げこんでやる。2、3か月もして取り出してみると、
それは輝かしい結晶でおおわれている。いちばん小さな枝、
せいぜい山雀(やまがら)の足くらいの枝までが、
眩(まばゆ)いばかりに揺れて閃く無数のダイヤモンドで
飾られているのだ。もとの小枝はもう認められない〉
(『恋愛論』原亨吉+宇佐見英治訳/角川文庫/1969)
その心理を「結晶作用」と、
スタンダールは呼んでいる。
『恋愛論』は学生時代に熱心に読んだ本。
それなのに「ザルツブルクの小枝」という言葉を目にしても、
僕は全然ピンとこなかった。
長いこと生きているので、
かつて素晴らしく鮮明であったものも、
多くは灰色のベールに覆われてしまっている。
『恋愛論』もそうなっているんだな、
と思った。
そちらは納得したけど、
カバーもどこかへ行ってしまった、
日に焼けてボロボロになっている文庫本を、
久しぶりに書棚から取り出してみると、
たくさんの付箋が貼ってあって、
その付箋はまだ真新しい状態。
ということは、ここ数年くらいのあいだに、
付箋を貼る作業をしているはず。
最近よくあることだけど、
そのことを忘れていたのは意外だった。
傍線を施した文章を、
ひととおり読んでみると、
いまの僕が読むに値する文章があった。
〈あえて簡潔な文体を持ちうるのは偉大な魂にかぎる〉
いま僕は〈簡潔な文体〉、
僕の言葉で言えば「詩的で香り高い散文」を、
目標としている。
スタンダール的には、僕がその目標を達成するためには、
僕が〈偉大な魂〉を持たなければいけないことになる。
これは大変なことだ。
それを持つためには、
みっともないすべての過去を、
洗い流して1からやり直すしかない。
何度か書いたけど、
僕はこないだから、老齢をかえりみず、
もう1度「青春」を生きたいと願っている。
しかしそれは言ってみれば、
漠然とした淡い願望にすぎない。
身の程知らずの目標をいだくかぎり、
そんな中途半端な願望は捨てて、
本当に老齢をかえりみないで1からやり直す。
結局はそうするしかないのかも知れない。
言えることは、そう思ったということは、
もはやその思いから逃れられないということだ。
スタンダールのその言葉が目に焼きついたということは、
「決定的な出会い」ということだ。
何か問題が生じたとき、
いつも僕は他人の目で自分を見ることにしている。
いまの場合だと、他人となった僕は、
自分に向かってこう言うに決まっている。
「決定的な出会いだと思うなら、
その気持ちに従うしかないじゃん」
過去の自分と訣別する。
言葉で言うのは簡単。
しかしこの先どれほど生きられるかわからないけど、
それを試みるしかないのだろう。