28年前の今日のことは、
1度書いたことがあるけど、
2つの場面をいまも覚えている。
1つは発生の場面。
2つめは規模の大きさを知った場面。
その朝は名古屋の自宅で寝ていた。
最初の揺れで目が覚める。
揺れじたいは大きくなかったけど、
収まるまでが長かった。
外に出ようか出まいか迷っているうち、
収まったので再び眠りについた。
午後からの授業のために、
予備校に出勤すると、
講師仲間が事のあらましを教えてくれた。
大変なことになっているとは思わなかったので、
起床後もテレビをつけず、
パソコンも立ち上げず、
そのときまで何も知らなかった。
阪神方面には親戚もなかったし、
友だちも居なかった。
しばらくは「対岸の火事」という感覚だった。
ところが僕にも影響が及んだ。
翌月、母親が病に倒れ、
広島に急遽帰らねばならなくなったとき、
新幹線に不通区間が生じていて、
利用できなかったのだ。
しかし連絡を受けた翌日、
運よく広島にたどり着くことができた。
新幹線が途切れていたあいだ、
日に2便飛んでいた、
「名古屋-広島」の臨時便の、
席を確保することができたのだ。
広島空港から満員のバスに乗って、
広島駅に向かった。
そのバスの中で不思議な体験をした。
僕が腰を据えたのは後方の補助席。
発車して程なく、いちばん前の補助席に、
母親そっくりの人が坐っているのに気づいた。
というより母親本人のような気がした。
もちろん後ろ姿しか見えないわけだけど、
細身、白髪混じりのパーマをかけた短髪、
怒り肩、紫がかった色合いのコート…
何度見ても母親以外には見えなかった。
これはどういうことだ。
やがて僕は冷静になった。
母親は広島市内の病院に入院中。
その女性が母親であるはずがない。
母親そっくりの人が目の前に現れたということは、
母親は復活するというメッセージなのか。
それとも後ろ姿しか見えないということは、
もう僕を振り返ることなく、
向こうの世界へ行ってしまうということなのか。
僕はどちらにも解釈できると思った。
結果的にどちらの解釈も当たっていた。
母親は危機的状態を乗りこえて、
退院することができたし、
しかし完治するまでには至らず、
その病気のために翌年亡くなってしまった。
久しぶりに田中康夫さんの、
『神戸震災日記』(新潮文庫/1997)
を取り出してみた。
僕が読んだのは、
1996年発行の単行本だけど、
そちらはもう手もとにない。
読んでから日が経っているので、
田中さんがその朝、東京のホテルで情報を得たこと。
それからバイクを購入し、
大阪のホテルに宿泊して活動したこと。
そのくらいしか記憶にない。
パラパラとページをめくってみた。
田中さんと一緒に、
東京のホテルに泊まっていた客室乗務員の、
西宮の実家が壊滅状態になったと知ったときの、
落ち着きはらった態度が印象的だった。
〈一瞬にして財産を失うって、こういうことなのね、
でも、家族が無事だっただけでも私は恵まれているのよね〉
「死と隣り合わせ」の職場で働く人だから、
とつぜん災難が降りかかっても、
心を乱すことなく、
状況を客観的に見れるのかも知れないけど、
とにかく立派な人だと思った。