佐原といえば、やはり伊能忠敬だ。
出身は別のところだが、婿入りした佐原の商家で、
前半生を立派に生きた。
彼のことは、小学生のとき、授業で知った。
測量していた或る朝、
宿舎を出るときに、彼のワラジの鼻緒が切れた。
弟子たちが、良くないことがあるということでしょうから、
今日は測量は止めましょう、と言うと、
気にすることはない、と答えて、予定通り測量に出かけた。
良くないことは起こらなかった。
そのエピソードが忘れられない。
教えてもらったとき、自分もそういうことがあったら、
伊能忠敬のようにしよう、と思った。
旧宅向かいの記念館には1度だけ入ったことがある。
展示されている地図を眺めていると、
彼の凄さがあらためて実感される。
彼は裕福だったし、50近くになって、
その先、何不自由のない隠居生活を送れるはずなのに、
あえて厳しい学問の道に進むという決断にも感心するが、
成し遂げた仕事の質の高さに、さらに感心する。
伊能忠敬関連の本は、1冊だけ、
童門冬二著『伊能忠敬〜日本を測量した男〜』(河出文庫)を読んだ。
著者によると〈できるだけかれの前半生の描写に力を注いだ〉とのことだが、
この本は、文章が平易で、読みやすく、
著者の思惑どおりに仕上がっていると言えるだろう。
長いこと、読みたいという気持ちだけは持ち続けている、
井上ひさし著『四千万歩の男』は、まだ入手してもいない。
文庫で5冊、総額5千いくら、
大長編で、値も張るということもあるが、
先送りを何となく繰り返しているうちに、
あっという間に時が過ぎ去った、というのが正直なところ。
いや、もうひとつ、井上ひさしとの相性があるかも知れない。
彼が『手鎖心中』で直木賞を受賞したのが1972年。
「ひょっこりひょうたん島」の作者だし、
興味を覚えて、単行本を買った。
しかし、大して面白くなかったのである。
もちろん、そのときの自分は、
貧弱な読書歴というより、読んだ本じたいが圧倒的に少なく、
わずかながらの判断力も身についてなかったわけだし、
いま『手鎖心中』を再読すれば、
おそらく違った感想を持つ可能性大なはずだが、
とにかくその時点で相性の悪さを感じたので、
以後、長い間、彼の著作は遠ざけてきたのだった。
久しぶりに読んだ井上作品第2弾は、何と36年ぶり、
2008年発行の『ボローニャ紀行』(文藝春秋)だった。
その本は面白く、当然ながら、
長い空白を設けたおのれの愚かさを恥じたのだが、
その前に買った、ともに新潮文庫の、
『私家版 日本語文法』と『自家製 文章読本』は、
依然、書棚に眠ったままなのである。
あのときの羞恥心はどこへ行ったのだろう。
いやはやだ。
結局、自分の場合は頭が固すぎるのかも知れないが、
物事に柔軟に対応するのは容易ではない、ということだろう。
他にも、おなじような理由で、
疎遠にしてきた作家は、1人や2人ではない。
しかし、もう遅い。
もはや残された時間が少なすぎる。
まさに天罰!