昨日触れた『安部公房とわたし』を、
久しぶりに書棚から取り出したので、
ところどころ再読してみた。
やはりこの本は面白い。
執筆してくれた著者に、あらためて感謝したくなる。
鈴木成一氏の装幀も最高!
なかでも、カバーの若き日の著者の、
4枚の写真が素晴らしいの一語。
しかし、写真に見られる、
若さゆえの惚れぼれするような魅力は、
誰であれ、あっという間に、
本当に、あっという間に消えていってしまう。
男として、これほど淋しく思うことは他にない。
読んでいて、忘れていたことも、当然たくさんあった。
たとえば、著者の芸名を決めるとき、
左右対称の漢字がいいということで、
最終候補に「茜」と「果林」が残り、
最後は占いで決めたというエピソードも、
まるで記憶になかった。
印象的なのは、21世紀に生き残る作家を3人挙げてと、
著者が文豪に尋ねるくだり。
文豪は、宮沢賢治、太宰治と答えたあと、言葉に詰まった。
著者は〈自分だという思いがあったのだと思う〉と推測している。
おそらく間違ってはいないだろう。
自分の場合も、その質問には、
やはり宮沢賢治の名を最初に挙げるだろう。
しかし、2人目は思い浮かばない。
太宰は、それほど高く評価していない。
ただ、太宰をまとめて読んだのは遠い昔のことなので、
いま読めば、評価は変わるかも知れない。
ついでに言えば、自分の場合、
安部公房にしても、大江健三郎にしても、
あるいは中上健次にしても、村上春樹にしても、
作品にもうひとつ馴染めない。
4人ともエッセイのほうを、圧倒的に面白く感じる。
『新潮』の安部公房追悼特集号(1993年4月特大号)も、
久しぶりに開いてみた。
すると、違和感を覚える発言があった。
辻井喬・大江健三郎の対談で、
大江氏が、安部公房の密葬に参列した際、
私たち夫婦は深い共感によって結ばれていた、
という真知夫人の言葉を聞いて感動した、
と発言しているのである。
大江氏が果林さんの存在を知らなかったはずはないし、
どう考えても、奇妙な発言である。
安部氏の他の著書も数冊開いてみたが、
そちらに関しては、ここでは触れない。