神戸空港建設反対運動関連の書類をまとめた、

分厚いクリヤーブックを久しぶりに開いた。

そして、もはや必要のない書類を全部捨てた。

クリヤーブックはほとんどカラになった。

 

田中康夫氏が代表を務めた、

「神戸市民投票を実現する会」にカンパした、

1回3,000円の払込票兼受領証が8枚出てきた。

2回だけカンパしたと記憶していたから、意外だった。

 

「実現する会」から領収証が送られてきたのは1回だけ。

こちらの記憶は正しかった。

A5のコピー用紙、田中氏の印鑑も押してある。

 

建設反対運動の集会には、3度参加した。

いずれも98年。名古屋から新幹線で駆けつけた。

 

最初は5月。

田中康夫氏と浅田彰氏との生田文化会館での公開対談。

『NAVI』(二玄社)連載の「間違いだらけのニッポン」の収録。

7月号に掲載された。

 

次は6月。

兵庫県民会館での、佐高信、河内家菊水丸両氏らを招いての集会。

このときは終わるのが遅かったので、ホテルに泊まった。

 

3度目は8月。

神戸朝日ホールでの、川島なお美さんと田中氏が対談した集会。

 

いま思い出すのは、

田中氏が会場の設営まで精力的にこなしていたこと。

辛口佐高氏が何とも穏やかな表情をしていたこと。

川島なお美さんがとてもとても美しかったこと。

 

それ以後、いやその前も政治的な催しには参加していない。

20歳の夏、初選挙で共産党候補に投票して以来、

いやその前の学園紛争の時代から、

ずっと反自民の立場をキープしているが、

政治はやはり自分の領分ではない。

 

田中康夫氏に関しては、長野県知事時代、

ガラス張り知事室が、どうしてもひと目みたくて、

泊まりがけで出かけたこともある。

 

知事はガラスの向こうで、

覗き込む子供たちに、ときに手を振ったりしながら仕事していた。

職員が間を置かず知事のもとを訪れ、指示を仰ぐ。

活気があふれていた。

 

田中氏はつねに正しく、抜群の行動力があった。

正しくては困る人たちが彼と敵対した。

 

コロナへの対処が容易ならざる今、

彼がしかるべき公的立場にいないのが残念でならない。