小学生の頃は、サッカーと言われてもピンとこなかった。
ボールをゴールにたくさん入れたチームが勝ち。
それ以上のことはわからなかった。
中学に入ると、中高一貫教育のその学園は、
ちょっと前に高校のサッカー部が全国制覇したこともある強豪校で、
サッカーは校技だった。
クラスマッチはもとより、校内の同好会チームのカップ戦もあった。
だから、否応なく、サッカーの知識と、
プレーの経験が増えていった。
ちょうど東京オリンピックの年だったので、
デットマール・クラマーさんや、
学園OBということで、
代表に選ばれたことを報告に来た、
のちに日本代表監督にもなる、
森孝慈さんも知った。
しかし、東京オリンピックでの代表チームの活躍に関しては、
まるで記憶にない。
やはり関心の的は、東洋の魔女だったろうか。
あとはアベベ・ビキラとボブ・ヘイズ。
よく覚えているのは、銅メダルを取ったメキシコ大会。
折から学園紛争の時代だったが、
サッカーに関しては紛争そっちのけで盛り上がり、
釜本・杉山・宮本輝らの活躍を、
クラスメイトのほとんどが熱烈に応援した。
しかし、自分が日本代表チームを応援したのは、
そのオリンピックだけだった。
日本全体のチームより地元広島のクラブのほうが、
カープとおなじように、
圧倒的に応援のしがいがあった。
とはいえ、熱心なサポーターだったことは1度もなかった。
小城得達や松本育夫らの東洋工業全盛時代から、
JFKサンフレッチェの現在まで、
ライトな応援団の一員であり続けている。
メキシコオリンピックの前か後か忘れたが、
ボルシア・メンヘングラッドバッハと日本代表の試合が、
いまでは考えられない日時設定だが、
平日の夕方から、県営競技場で行われた。
授業が終わって、友達とタクシーで駆けつけた。
チケットを買って中に入ると、
警備がゆるくて、グラウンドに簡単に出ることができた。
近くに代表メンバーがいた。
強い西日を受けてボール回しをする宮本輝紀選手が、かっこ良すぎた。
試合が始まると、ひとり際立ったプレーをする、
ベルティ・フォクツに目を奪われた。
ワールドクラスのプレーを初めて目の当たりにして、
これが「世界」かと、驚いた。
その後、さらにサッカーでも、
その他いくつかのジャンルでも「世界」を知るようになる。
自分よりはるか高いところに棲息する人たちがいる。
三島由紀夫もそう、あるいはピカソにしても文句なしにそう。
自分が努力して追いつく人たちではない。
そのたびに挫折感を味わった。