山中伊知郎の書評ブログ -229ページ目

「負けた」教の信者たち

近くの図書館に行き、気になったタイトルの本を借りて読んでみようと考える。それでピックアップしたのが、6年ほど前に出た『「負けた」教の信者たち』なる新書本だった。「負けた」教って何なんだ? という好奇心をそそられたのが1つ、以前から「勝ち組」「負け組」と記号的に分析する風潮に軽い反発と、そこそこの興味を持っていたのが1つ。

 3分の1くらいまで読んだところで、「おいおい、こりゃねーだろ」とツッコミを入れたくなった。私が惹かれたフレーズである「負けた」教についての記述は、ほぼ前書きの部分で終わっており、その後は「ひきこもり」に対する分析や、ネット・コミュニケーション論など、どんどん枝葉の方ばかりのびていくからだ。後半になっても変わらない。話は児童虐待やら、ニート論になっていくばかりで、タイトルにあった「勝ち」「負け」に関する部分はほぼ、皆無。私はもっと格差社会について語っている本かと思ってたのに。

 著者本人も、最初にこのタイトルが「ウケ狙い」なのを告白しているくらい。

 しかも、著者は昔流行ったニューアカだかポストモダンだかの人らしく、理論を語る部分が、やけに難しそうな言葉ばかりが並べられていて、読みづらい。途中から面倒なので、飛ばしてしまった。

 とはいうものの、具体例を出しつつ現代を分析する個所は、何度も「なるほど」と納得させられるくらい、鋭い。

まず冒頭、今の多くの若者たちが、プライドを崩したくないために「負け」に固執するが、その裏で「勝ち組」の確固たるイメージがなく、それへの羨望も乏しい、との指摘はうなずける。

 私も、専門学校の講師をやるようになって、何十人もの若者を見た。が、その多くから「最初から勝負を投げているが、ガツガツ勝負にこだわって成功した人間をエラいとも思っていない」感じを受ける。

 ひきこもりが高齢化し、やがて彼らには「餓死」の恐怖が近づきつつあるとの話、ひきこもりなどについては、もはや予防よりも対応の方が大事だとの話なども、よくわかる。韓国と日本を比較して、徴兵制でみんなが兵隊になる分、まだ韓国の方が他人とコミュニケーションをとる機会ができ、ひきこもりの防波堤になっている、なんて指摘も面白かった。ニートについては、その人間を見て、まず支援と治療のどちらが必要なのかを周囲が判断すべき、との話も的確だった。

 でも、また最初に戻るけど、やっぱりもっと「勝ち」「負け」にこだわった内容にしてほしかったな。もしそうなら、この「負けた」教はその年の流行語になったかもしれないのに。

「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)/斎藤 環
¥798
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哲学

 もういいかな、と思いつつ、やっぱり『IPOON!』を見てしまった。あそこまで「大喜利」を競技としてショーアップできるのは、「才能」と呼ぶしかない。スタッフの協力があったにせよ、『すべらない話』といい、これといい、松本人志の力は大きい。テレビにおける、「やや先を行った笑い」は、ここ10年以上、ほぼ彼が担っているといっても過言ではないな。残念ながら、先日のNHKのコントはあまり笑えなかったが。

 で、読み返しましたよ、島田紳助と松本人志の『哲学』を。『松本紳助』なるトーク番組で共演していた2人が、「お笑い」のことから「人生」についてまで語っていった本で、出たのは今から8年くらい前。対談ではない。かわるがわる、2人が一人称で語っていくのだ。

 再発見というか、改めてうなずいたり、興味をひかれた部分はたくさんあった。たとえば松本が、自分と紳助とのトークのどこが面白いかを分析するあたり。既存のトーク番組は、どれだけ相手の内懐に飛びこめるかが成功の基準になる。しかしこの2人のトークは、互いに独自の世界観を持ち、そこに入りこまずに成立させてしまう。発想そのものが、まったく他の番組とは異質なのだ、と説く。

 また、それと関連して、松本は、芸人は、自分独自の「山」、いわば世界観を持ってその頂点に立ち、他の芸人と対峙していかなければ長続きしない、とも説く。

 一方の紳助は、当時、40代半ばで世間的な成功をおさめてしまい、次にいったい何をやったらいいのか、戸惑っている。「楽しいのは山を登る前で、頂上に登ってしまったら、もう何もない」とつぶやきつつ。

 そして、2人はともに相手の才能を認め合い、自分たちを超える芸人はなかなか出ないだろうと自負してもいる。

 まったくその通りで、この本の発売から月日がたった現在でも、2人に肉薄する芸人すら出ていない。まるで時間が止まったみたいに。

 また、「才能」のことについていえば、2人の共通した考えとして「才能がない人間はお笑いをやってはいけない」と言い切っている。お笑いが好きかどうかは関係ない。「才能がなかったら、辞めないと迷惑だ」とすら断言する。

 厳しいが正しい。私も、お笑い芸人志望の若手をいろいろ見てきたが、お笑いにはセンスが不可欠だ。センスは努力では得られない。それがない人間は、早めに別の仕事を見つけた方がいい。本人は自己満足ですむかもしれないが、ライブでそれを見せられる側はたまったもんじゃない。本人のためではなく、他人のために辞めた方がいい。センスはあるが華がない人間は、表には出ず、ネタを考える「作家」になればいい。センスそのものがなく、それでも「お笑い」に関わりたければ、出来上がった「お笑い」を分析する「お笑い評論家」の方に回るのが無難だ。こちらの方が、才能の必要性は少ない。

 でも、なかなかそうもいかない。私が「もう辞めたら」と言った中で素直に辞めた人間はいないし、当然、当たっている人間もいない。多くは30歳過ぎても、35過ぎても「お笑い」を続けている。

 本人は気持ちいいんだろうな。

哲学 (幻冬舎文庫)/島田 紳助
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男色の景色

男色(なんしょく)の景色―いはねばこそあれ/丹尾 安典
¥2,310
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「BL」はブームではなく、文化として定着している昨今だ。テレビ見ても、オカマタレント、ゲイタレントが花盛りなのだから、そりゃもう市民権を得たといってもいい。

 しかし、私のように「ノンケ」側の人間から見たら、けっこう気持ち悪い。かつて、新宿二丁目のバーに取材に行った際、外国人も含めて、客のこちらに向ける視線から、自分以外のほとんどがその筋の人たちであるのが感じ取れ、とても居心地の悪い思いをした。異分子として排斥されるのではなく、「こっちへおいで」と誘われそうな雰囲気がたまらなかったのだ。

 そんなことを思い出しつつ読んだのが『男色の景色』。読んですぐ、「おい、この著者は何でここまで男色を擁護するんだ?」とビックリしてしまった。まるで、日本の文化は男と男の愛によって作られたような勢いなのだ。

 世阿弥が将軍・義満の稚児だった話や、戦国武将のほとんどが男好きだった話などは、まぁ有名で、私もよく知っている。三島由紀夫の男好きも誰もが知っている。

 だが、この本を読むと出るわ出るわ。空海が男色の祖とされているが、それ以前の奈良期でも行われていたことやら、平安貴族の中でも浸透していて在原業平にもそのケがあったこと、本阿弥光悦、尾形光琳もその趣味があり、明治以降でも夏目漱石にすらそのケがあったとか。他にも井伏鱒二や、アナーキストの大杉栄や、まー、出るわ、出るわ。確かに江戸期にあっても、男色がそれほど不道徳なものとみなされなかったのはわかる。

ただ、こう次々と有名文化人の名前が登場すると「ホントかよ」とも言いたくなる。

 しかも、オチともいえる最後の章では、あの若い男女の純愛を描いた名作『伊豆の踊子』が、本当は男と男の愛を描いたものである、との新説も登場する。主人公の一高生が本当に心ひかれたのは「踊子」ではなく、その「兄貴」だった、というのだ。川端康成にその趣味があったことは、どこかで読んで知っていた。とはいえ、そこまで深読みする必要はあるのかな。

 「オカマ」「かげま」などの語源については丁寧に解説されている。また有名なホモ雑誌『薔薇族』に掲載された寺山修司の詩を紹介するなど、興味深く、しかも文化的価値があると思われる個所も数多い。三島由紀夫のワキガが臭くて、一緒に寝た男がどん引きだった、なんてエピソードも笑わせる。

 取材も行き届いていて、本としては退屈することなく読ませてくれる。ただ、「男色こそ文化の華」とするその落とし所が、どうも納得できない。

「男色を異様とみなす社会にあっては、男色のサインは理解もされないし、その存在すら忘れられる。だが、男色の花言葉から撒かれた花粉が、潤色をほどこす絵具層となって画面をうるおし、はなやいだ香りを匂いたたせることだってある」

 そう著者は語る。だが、二丁目のバーに「気持ち悪さ」を感じた私としては、やはりその部分には共感はできない。男とヤリたい、と思ったことないしな。



司馬遼太郎読本

 日本のオッサンの常として、私が最もよく読んでいる作家は「司馬遼太郎」。『燃えよ剣』だの『坂の上の雲』などになると、たぶん繰り返し10回近く読んでいるのではないか。あまり読んでいない『菜の花の沖』あたりでも2~3回読んでいる。よく言われる話だが、俯瞰でドーンと上から激動の歴史を眺め、賢明なる傍観者として人々の人生を見つめていく筆致が、肌に合うのだろう。それに、メインストーリーの合間、合間に挟まるエピソードの豊富さがまたコタえられない。

 だが、新年早々、その司馬作品のどれかを読み返すのも、ちょっと芸がない。そこで、古本屋で見つけた、司馬愛好者の出した『司馬遼太郎読本』を読んでみることにした。サラリーマンを中心とした約10人のグループが、司馬文学の魅力を語り合い、また代表的作品のあらすじと読みどころを解説する。

 全体として、魅力の語らいの部分は、あまりノリきれなかったな。映画『男はつらいよ』を、「寅さんファン」が語る本も何冊か読んだが、その時と同じような気分だった。

 私は私なりの感覚で司馬作品や「寅さん」が好きなのであって、別に他の愛好家の話を聞きたい気にはならない。そんな話を聞く時間があったら、一人で、当の実物を読んだり見ていた方が楽しい。

 ただ、その中で第7章の「映像化された司馬さんの文学世界」。ここは非常に興味深かった。実際に『国盗り物語』『花神』といったNHK大河ドラマを演出したディレクターと、やはりNHKの『太郎の国の物語』なるトーク・ドキュメントを作ったディレクターのインタビューが掲載されている。そこで、司馬本人が、「自分の作品は映像化が難しい」と、ドラマ化に対しては消極的だったことや、特に『坂の上の雲』については、何度お願いしても本人のOKが出なかったことなどが語られている。

 中には、ディレクターが「『韃靼疾風録』の韃靼の娘役は、ぜひキムヒョンヒにやらせたい」と言ったら、司馬が「ぴったり」と答えた、なんて一節もある。やっぱり、こういうナマの、司馬本人の声が出てこなくては、こちらはノッていけない。

 まだ司馬作品にあまり触れたことのない人には一冊まるごとを、愛好家にはこの7章だけ読むことをお勧めしたい。

司馬遼太郎読本 (徳間文庫)/現代作家研究会
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大和古寺風物誌

年のはじめにどの本を読もうか、思案する。私の部屋の、乱雑に本や書類がつみあがった中をひっくり返して、それにふさわしい本を探してみる。そんな中から偶然出てきたのが亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』。

 たぶん中学くらいに、「夏休みに読むべき推薦書」に選ばれていたと思うが、はっきり読んだ記憶がない。なぜ部屋の中にあったのかもよくわからない。

 読んでみたら、これは深いね。まあ、「古典」のひとつになってるくらいだから当たり前なのだろうが、単なる奈良の古寺や仏像の案内書ではない。古代の大和を語った歴史書であり、仏教を語った宗教書であり、美術書であり、旅行エッセイであり、文庫本一冊の中に様々な要素が入り込んで、しかも融和している。木でいえば、幹になる「大和の古寺」に、枝にあたるいくつもの事柄が調和のとれた一本の大木として成り立っているのだ。

 それでまた、この文章を書いた時代が、主に太平洋戦争真っただ中の昭和17年前後っていうのがシブいではないか。戦争をやってる最中に寺巡りなんて、逆に度胸のいる話だ。

 しばしば、文章のあちこちに、「戦争」と古寺や仏像との関連がさりげなく語られてもいる。たとえば、終戦した年の秋の記述として、「空襲が激化した時、大切な仏像は疎開させようという話が出た」と書かれている。寺や仏像の数々も、地獄絵図ともいえる戦乱の中で生まれ、多くは戦火で焼失していったとも。

 そんな中で繰り返し出てくるのが、「仏像は単なる美術品ではない」とのフレーズ。著者は、戦時中の仏像疎開にも反対したという。なぜなら「仏」ならば人々の災難とともにあって、災厄に殉じるのが当たり前だから。

「仏像は語るべきものではなく、拝むものだ」

 いいなァ、この言葉。博物館で鑑賞されたって仕方ない、寺の仏殿にあって帰依されてこそのもの、と著者はいう。読みながら、ぜひ春の奈良に行って一回りしたくなってくる。本の中に、わずか数ページだけふれられた「法輪寺」の荒廃したたたずまいがまた、よし。法隆寺や東大寺などほどメジャーでないところが、妙に印象に残る。もっとも、60年以上もたって、今行ったらすっかりリニューアルしてるだろうが。 

 私も、寺巡りに心ひかれる年になったのだなァ。そういや、死んだオヤジも、60過ぎくらいから、東京都内ながら、よく寺や神社を散歩してまわるようになっていた。

大和古寺風物誌 (新潮文庫)/亀井 勝一郎
¥420
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