お坊さんが困る仏教の話 | 山中伊知郎の書評ブログ

お坊さんが困る仏教の話

 

  こりゃまあ、太い骨子としては、「今ある日本の仏教は、お釈迦様が始めた仏教とはまったく違うものですよ」というのがまず一つ。そもそも自分以外の衆生を救う大乗仏教自体が、お釈迦様の考えとはまったく違う方向にいってしまったものであり、仏教の僧侶が葬式を仕切る、なんて発想は、後に中国に仏教が伝えられたあたりから始まったものであり、大乗のお経も、あとの人間がみんな創作したものに過ぎない、と説く。

 とはいえ、そうした話は、すでにいろんな本で読んできてるし、意外性はない。

 

 この本のユニークなところは、そうした軌跡はとりあえず受け入れた上で、今の日本の坊主は開き直って、葬式仏教に徹すればいいじゃないか、と説いている点だ。それも戒名つけてカネ稼ぐとかセコいことじゃなく、本当に故人をしっかりと見送り、遺族や会葬者たちに仏の尊さを実感させる葬儀をやってみせてくれること、という。

 いや、これは私も共感する部分が多いな。戦後になって葬儀屋があまりに目立つようになりすぎて、葬式が段取りばかりの形式主義に陥っていったのは非常によくわかる。みんな、なんかもっと素直に「感動」させてくれるのを願っている。たぷん、その「感動」の役割を担うのは、本来、お坊さんなわけで、彼らは、いわば舞台にたって観客を「感動」させる名優である必要があるのだ。

 ところが、今の坊さんは、戒名代でカネばっかり取るくせに、やってる読経は一般人とさしてレベルは変わらない。「私は個人を浄土に招き入れられる」と思わせる凄味も一切ない。

 つまりは「カネの取れる坊主」になってくんなきゃ、こっちは納得しないのだ。

 

 と、いろいろ考えつつ、また「釈迦仏教は今の日本仏教とは違う」って話につい戻ってみて、妙な思いが頭に浮かぶ。

 結局、お釈迦様が作った、どこまでも自分個人が悟りを開くために出家して修業する、といったやり方は、今でいったら、どらかといえばカルト教団の出家者の方向性に近いものだったってことだな。となると、たとえば、あの、死刑囚続出のとんでもない事件を起こした人たちの方が、より今の仏教教団よりもお釈迦様の考えに近い、となりかねない。

 そんなわけねーだろ、と全否定出来ないあたりが、宗教の難しいところだ。