深夜に目が覚めてイロイロ考えてマス。
昨夜のNHK。小学校の児童や先生がグラウンドにいて津波に流されたという悲しい話。ココからが、山もっティの聞き間違えでなければかなり重要なコトだと思うんです。
「地震が発生したため、児童や先生はグラウンドに集合していた…」と。
学校でよくやる避難訓練どおりに避難していたのではないかと思ってます。グラウンドや体育館に集合して人員点呼。大きな地震が発生したからソレでよかったのかもしれないんですが。まさかココまで津波が来るとは思っていなくての遭難だったのか、はたまた、全員集まってから高台に逃げようとしていたのか、津波が思ったより早く来てしまったのか…。
もしかしたら、屋上や上の階にいた方が、多くの犠牲者を出さずに済んだのではないかと思ったんです。現場の判断は難しく、責めるコトはできないと思うんですけど…
今回の津波は想定しない規模でしたが、もっと大きな地震も実際あります。
私は吉村昭の「関東大震災」という小説を読みました。防災の日生まれでもありますし(笑)
吉村昭の三陸津波に関する小説は買ってはいるけどまだ読んでいませんでした。かつての大災害を淡々と書くこの小説は貴重な情報だったと思います。日本史には平安時代(貞観)の被害の記録があります。人口が今よりはるかに少なかった当時で千名の死者というのは決して見逃していい数字ではなかったと今にして思うのです。
話をまたNHKに戻して、大洗町では、津波による犠牲者がかなり少なかったらしく、消防隊員の方がずっとマイクに向かって高台への避難を指示し、スピーカーでソレを聞いた住民が高台へ避難したのだそうです。津波が消防署に入り込み足まで海水に浸かりながら恐怖の中でマイクを放さなかった勇気と責任感が多くの人々を救いました。カラオケでマイクを離さない音痴オヤジは何の役にも立ちませんが…(爆)
ココで「犠牲者」というコトバを何度か使ったのでコレについて。「犠牲」というのは神様への「いけにえ」のコトなので、ずっと「犠牲者」という言葉に違和感を感じていました。今回、ネットで調べてみたら、「被害の痛ましさを込めてこう表現するようになった」というような説明がありました。何かしっくりしませんが、そうなんでしょう(笑)
「尊い犠牲」などと言うとさらに違和感があります。地元長崎の原爆被害に関しては、カトリック信者の多い長崎では宗教味を帯びた表現でもまだ納得できるのですが…
多くの犠牲から、また災害対策なども必要ですが、まずは大洗町のように犠牲者がほとんど出なかった事例を大いに見習うべきと思いました。