1月も残すところあとわずかですね。年の初めということで、新春のつどいが今月は多く開かれて、私もいくつか参加をしました。

 豊中革新懇では、2024年が沖縄市と豊中市の兄弟都市50年目にあたることから、沖縄の文化行事と沖縄選出の国会議員の赤嶺政賢さんをお招きしての講演会を行いました。私は、主催者を代表して、開会のあいさつをしましたが、そこで、沖縄市と豊中市の兄弟都市のいきさつをお話ししました(その部分は最後に紹介で載せておきます)。沖縄の文化に触れることができ、また、赤嶺さんのお話からは、沖縄の基地問題の闘いを通じて、日米安保条約の問題に行きつくまで共闘が進んでいったことを知り、一致点に基づく共同の闘いの重要性を実感しました。

 日本共産党豊中後援会の新春のつどいでは、清水ただし元衆議院議員があいさつに来て、今の政治情勢についてわかりやすくお話を頂きました。その中で、各議員の担当地域の後援会から出し物ということで、私はつたないながらピアノを弾かせてもらいました。たどたどしいものの最後まで弾けて、ホッとしました。党大会も終わり、1月もあと少し。引き続き、頑張っていきます。

 

今年、沖縄市と豊中市は兄弟都市、50年目を迎えました。この兄弟都市のきっかけは、豊中市史によれば、1964年に豊中市での第二次世界大戦の戦没者、空爆犠牲者追悼式に沖縄市の前の霊石とハイビスカスが豊中に送られたことだとされています。そして、当時の豊中市の竹内市長の回顧録、「ある市長の戦後史 激動の地方自治」という本にもこの当時のことが書かれており、それによれば、竹内市長が沖縄を訪問した時に当時のコザ市、現在の沖縄市の大山市長と懇談する中で、沖縄市が米軍の軍政下にある中で本土とは切り離されていて、本土の事情がわかりにくく、職員も本土と交流ができず、軍政府に相談しても「台湾、フィリピン、ハワイの都市へ行け」と言われて困っていると相談された。それを受けて、当時の竹内市長が沖縄の本土復帰に備えて、豊中市へ職員を研修として受け入れることを話をして、そこから職員交流が生まれ、豊中市とコザ市との間で交流が深まり、兄弟都市と言われるようになった。

 沖縄返還が具体的になっていく中で、コザ市に「沖縄こどもの国」という青少年施設に何か記念碑を送ろうと豊中で話になり、豊中市在住の彫刻家、吉田えいじさんの「少年の像」を沖縄返還の前年、1971年に送りました。

吉田えいじさんの作品は、豊中市でも非核平和都市宣言を記念して設置された曽根駅前の平和の呼び笛など見ることができるので、よくご存じの方だと思います。

 この除幕式で作者の吉田えいじさんは、「沖縄は、太平洋戦争の最も大きな犠牲を払った県であり、終戦後も占領地として数々の苦難を受けてきた県である。非戦闘員である多くの人々が非命に倒れた悲しい歴史として、「ひめゆりの塔」を始め多くの碑として残されている。私は、その碑に対して涙するとき、明日の沖縄の子どもたちの明るい未来を祈らずにはいられない。

 本土復帰を機として、本土と沖縄の子どもたちが仲良く手をつないで希望のある平和の国を建設していくことを念じつつ、合奏の荘園の像を心のともしびの一つとして役立てば幸いであると思います」とメッセージを寄せています。

 まさに沖縄市と豊中市は平和を作るためにも一緒に頑張ろうとしてきたわけです。

 本土復帰後の2年後、1974年にコザ市が周辺市と合流し、沖縄市となり、「豊中市と沖縄市の兄弟都市宣言」が行われました。その後も交流が続き、市役所の本庁にあるシーサー像が送られ、1994年の阪神・淡路大震災の時には、今度は沖縄市や市民から救援物資や救援金が送られ、被災した市民40人が沖縄市に招待されるなどお互い助け合う関係が続いています。

 悲惨な戦争を繰り返さず、平和をつくるために、そして、被災の中でも復興を行うためにともに協力してきた関係は、まさに現在に通じる交流歴史だと感じました。