~ロングインタビュー⑦~
【社会の仕組みはどうなってる】
先ほども話しましたが、僕のミッションは「見つけて、つなげて、応援することを通じて千葉から日本を元気にする」ことです。
「見つける」のは、それぞれの世界で頑張っている人や企業です。
僕はそれを「地域の宝」と定義しています。
「宝」と「宝」をつなげると新しい価値が生まれるわけです。
僕は議員になってからの12年間、ずっと初心を忘れずにアクションを続けて来ていますが、なぜそこまでして主体的な「宝」活躍する社会を実現したいのかをちゃんと伝えたいわけです。
例えば、「書くことが好きな方」がいるとします。
僕はその方が本来持っている書く力を生かして、ライターとして活躍できれば、きっと新しい世界が広がるんじゃないか・・・と感じるわけです。
で、それを促すと、その方は「実はライター教室みたいなものをやりたい」って言うので、僕は「それ!いいじゃん。実現に向けて応援するよ!」と言っても、今度は「やりたい気持ちはあるけど、でもなんかそれって恥ずかしいし・・・」って躊躇しちゃう方が多いのが現実です。
僕からすれば、人から話を取材して、取材した内容をまとめることが出来るなら、結構ニーズはあると思うんですよね。
そして、その方の夢である「ライター教室」のようなものが実現して、やがて「市民ライター」が増え、人の話を聞いて、その事を書きたい人が増えれば、世の中に、人の話を聞いてあげる人が増え、つまり傾聴じゃないですか。
それは取材している人に尊厳を与えてるわけだから、鬱病も無くなるかも知れないわけです。
だから「ライター」という仕事も、実は社会に大きな価値を提供できると僕は思ってるので、そのことを言うと、「それは飛躍しすぎ!」って言われるわけです。
でも僕は全然飛躍じゃないと思っているわけです。
この「見つける」「つなげる」「応援する」は、税金投入ゼロで実現できるわけです。
だからあえて市役所などの支援を受ける必要はないわけです。
僕だけでなく、多くの方が目の前で地道に頑張ってる人を見つけたら、その方を出来る範囲で応援してあげるだけで、社会が少しは元気になりませんか?
僕は、ずっとこう言い続けて、これからの議員の仕事なんじゃないかと思ってるわけです。
やれ法律を作れとか、条例を作れとか、予算(お金)をつけろとかって言う人は、どこかに「予算」があると考えているわけです。
でもその思考だと、予算ありきですから、予算が無くなったらやらなくなっちゃう可能性が高いわけです。
動機は、「自分が何がしたいのか?」です。
一体、日本をどんな社会にしたいのか?です。
そうみんなが思うことが大事なんじゃないですか。
以前、民主党の時代に「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズが流行った時は、確かに、こんなに狭い日本で、建設会社ばかりが多く、こんなゼネコンばっかりだっだらダメだな・・・。確かにコンクリートばっかり作ってもだめだと感じました。
確かに「ハコモノ」よりは「人」だな・・・と、キャッチフレーズを聞いた時はそう思いました。
しかし、その「人」というのは、もちろん子育て支援も含まれてはいますが、結局は医療費や年金、介護などの社会保障費が軸で、働けない人などの弱者を増やし、生活保護などでお金を配っちゃうのだとしたら、やはりそれも問題だな・・・と感じました。
「ちょっとまてよ!もらえるのなら、俺もももらって使いたいよ。権利だってある。」
民主党政権の菅総理の時に「最小不幸社会」というキャッチフレーズもあったわけ。
これも何か違和感を感じたわけです。
じゃあ一体誰が稼ぐの?誰が働いて納税するの?って思った。
働けるのに働かない。
稼げるのに稼がない。
でも、私たちは弱者だ〜って言って、そんな人に気前よくお金を配っていったら、
じゃあ、その財源を一体誰が支えるんですかってなりますよね。
これがダメなんです。
あとは利権や既得権が良くないわけです。
農業関連事業者から支援を受けている議員は「農業振興策」を頼むぞと言われ、建設業界からは、国土強靭化などの公共事業を頼むぞと言われ、その団体から支援を受けている議員は、当然その団体の想いをみんな背負ってきてるわけです。
いやいや俺たちは働く者の代表として労働組合から支援を受けているから。
俺たちは宗教団体から支援を受けているから。
そんな、それぞれの議員がいろいろな経緯を踏まえて、結果的に選挙に当選している人が集まっている集団が議会じゃないですか。
それぞれの議員が、多くの想いを背負って来ています。
私は主婦の声を背負い、あなたは建設業界の声を背負い、俺は農業の声を背負い、あいつは労働組合の声を背負っている・・・
みんな背負ってるものがあるわけです。
それでも、みんな同じ日本人じゃないかと思うわけです。
お互いが自分たちの想いだけぶつけても、永遠にまとまらないじゃないか・・・とも思うわけです。
予算だって、限られた財源しか無いわけです。
本当に、子供たちが夢と希望にあふれた社会を作り、後世に残すためには、どうしてこの限られたお金をそう簡単に使えるのか、みんなで真剣に考えなきゃいけないわけです。
お互いの立場を超えて。
たしかに農家の人たいへんだからお金あげよう。
業界に工事を発注しよう。
主婦の皆さんには、消費税上げないの?
わかるけど、それがまた借金でつながったら、あなたのお子さんがまた借金を背負うことになるよと。だから先送りやめましょうよと。
それが正しい答えだとするじゃないですか。
じゃあ、考えたことは決めてみんなでやろうと。
自分の団体のことだけ言うのはやめようと。
俺だったら、本音はそうやって議会運営をしたいわけ。
でも、特定の組織票の代表者として議会に送り込まれた議員の場合(僕は100%違いますが)
「おい、山本。お前のかわりはいくらでもいるんだぞ。別に議員はお前じゃなくてもいいんだ」ってすぐに候補者を差し替えられちゃうわけ。
だからみんな、後ろに背負ってるから、「私の立場としては・・・」ということになっちゃうわけ。
わかるよ、その気持ち。
本当に言いたい事を言えないのは苦しいだろうな・・・とも思います。
自分を支えてくれる団体の主張をすれば、選挙の際にも力強い応援を得られます。
また、自分の後援会がしっかりしていれば、任期中はその後援会メンバーを大切にすることで、選挙の時には支えてもらえますから継続して当選出来る可能性が高まります。
わかりますよね?この構図。
だからますます政治家は何やってんの?
日本の政治は本当に大丈夫?
そして、まともな人ほどあきれてしまい、政治がバカバカしく見えて、無関心になり、やがて、政治に頼っても仕方ないよねってなる。
その結果、投票率が下がるわけです。
選挙ももっともっと有権者が熱く白熱し、どの候補者が議員にふさわしいか?とか、どの政策が優れているのか?など喧々諤々意見を交わす場があり、例えばオリンピックやワールドカップの時くらいに、みんなが同じ気持ちになったような状況下で、一定の得票を得たことで当選するような人であれば全く問題無いのですが、現状はというと、その対極のような状況になっています。
多くの有権者が選挙に行ってもしょうがないと感じ、投票率が下がる場合にあっても、どんな時にも100%投票に行く人はいるわけです。
投票率が4割、3割になっても必ず投票に行く人たち・・・それが、組織票です。
組織票であっても、当選は当選ですし、当選した議員は「私は市民お一人お一人から選挙で選ばれて当選しました!」って言います。
だって、票には全く色はついていないので。
有権者に選挙に関心が無い→特定団体の組織票の存在が大きくなる→議員は当選後に特定団体の意向に沿う→ますます有権者は選挙に無関心に・・・
このサイクルが助長されながら回り続けるわけです。
このスパイラルは何としても変えなきゃいけない・・・そう思っているわけです。
だからこそ、一人ひとりの人が政治に関心を持ち、社会に関心を持つことが大切なんです。
だからまずは投票に行く必要があるわけです。
「まずは投票へ行け!」と。
千葉から日本を元気にするためには、まずは選挙に行くことなんだよ。
自分の生活や将来のことをもっと意識しろと。
この街のこと考えろよと。
だからまずは自分のことは置いておいて、どうしたら社会のためになるかってことが僕はは正しい答えだと思ってるわけ。
でもそういう議員はなかなか選ばれない。
他の議員は、自分の住んでいる地域のところを良くしますよって言うんですが、僕はそれを我田引水だと考えているので、あえてやらないようにしているわけです。
そんなことやってちゃダメだよって、もっと社会全体の事を考えようよっていうスタンスなの、僕は。
でも住民は、「他の候補者の人はやってくれるって言ってくるよ」と言われますが、それでもダメなんだよっていうのが僕の意見なの。
これまでは、借金してでも今までいろんなものを作っちゃった。
作ったものは維持しなきゃいけない。
やがて利用者が減ってくる。
どうしようってなってるでしょ今。
だから今あるものを生かそうよと。
今あるものに価値を、息吹を与えてもう一回みんなで使おう。
それも公務員じゃなくてもいいよね、民間の力でやってみようよって。
施設は公が整備したとしても、それを維持するためにお金がかかるから、それをどうしようかってことをこれから考えていく。
それを「共助のしくみ」といいます。
公が公助、自分のことが自助といいますが、共助っていうのはお互い支え合いのしくみを作ることなんです。
それがこれからの社会に絶対に必要だと僕は思っています。
でも「公」を誰が担うのか?
公共といえば、「それは公務員がやるもんだ」じゃないんです。
「公」とは、みんなでゴミを拾う文化であり、みんなで挨拶をする文化。
それも立派な「公」です。
でも、警察とか、消防とか、道路を作るとか。
どうしても国しかできないこともあるよね。
しかし、それ以外のことは自分たちでやろうよと。
しかし、それだけではダメなんです。
ボランティアの人は生きがいがあり、一生懸命やる人は多くいらっしゃいます。
でも、そのボランティアさんは今日も、明日も。あさっても来てくれるかと言うと、ボランティアやるの疲れちゃったって人がいるわけ。
仕事できる人は仕事集まってくるから。
でも仕事じゃないから、ボランティアだから。
頼りにさえちゃうと、もう休めなくなっちゃって。
「休みます」
「困ります!」
「いや、困るのもわかるけど、俺ボランティアだから…」
ってなっちゃうわけ。
だからそこは、仕事にしなきゃいけない。
高給でなくていいけど、ちゃんと働けるしくみを作ってあげないといけない。
持続可能なお仕事にしなきゃいけない。
自分のやったことが正当に評価され、対価を得られる仕組みです。
大きな利益をあげる必要はないわけ。社会の課題をみんなで解決するしくみを作ってあげるってことが必要なの。
だから出番は75歳のおばあさんでも出番はあるの。高校生でも、場合によってはある。
僕は中学時代、算数が数学になった時に、めちゃめちゃ追いつけなくなったんだけど、こういうこと考えたら、簡単だとわかったんだよ。だから高校では数学好きになっちゃったって人が小学生向けにやってあげたらお母さんすごく通わせたいと思いませんかとか。
だからみんなが出番や役割を作るためにはどうしたらいいか・・・
これが僕の共助のしくみ。
そこをいつも言ってる。
ということで、僕は「共助のしくみ」を作るためにいろいろと頑張っているわけです。
しかし、選挙の際一番投票率の高い年代が70歳以上の人だったりするわけです。
70代は7割、60代は6割、50代は5割、40代は4割だったりするわけです。
20代は2割台で、そもそも絶対数の分母も少ないのに、投票率が2割だったりするわけ。
高齢者は、分母も大きいだけでなく、実に6割7割の方が投票に行きます。
さあ、議員はどっちの言うこと聞きますかっていったら、おじいちゃんおばあちゃん、やってあげるよって。
だから高齢者向けの福祉の予算がどんどん増えているわけ。
子育て支援とか言って、きついよね。
そんな社会なんです。
今。