山本直史です。

時代がどんどん便利になっています。

インターネットによりあらゆるものに繋がることで、ビッグデータやその解析技術も進化し、さらには人口知能のやディープラーニングによる予測技術が高まることは人類にとって良いことであるとは思いますし、このままさらに進化の度合いは加速して行くように感じています。

それでも、僕の頭のどこかに、その進化の状況を手放しでは喜べない自分もいます。

それは、インターネットにつながる事で手に入る利便性と引き換えに、自分が誰かに監視されるようなリスクや、プライバシーに関わる個人情報の漏洩など、これまでのアナログ社会では想定していなかったことが現実に起きる可能性があります。

それを防ぐために新しい法律が制定されたり、ルールが作られたりします。

新しい法律やルールが作られると、それの意味するところは、これまでは問われなかった事が、新たに問われるようになるわけなので、少し窮屈な社会になるとも感じるわけです。

新しい法律やルールを定めることは決して悪いこととは言いませんが、結果的に自分たちで自分たちを縛るルールを作るということは、時代がどんどん窮屈な社会に進んでいるのではないかと感じているわけです。

単に「昔は良かった」とか、「アナログが良かった」とはいいませんが、とうも時代の流れは、プライバシー、環境、人権、個人情報など、新しい概念がルール化されて来たことで、どうも窮屈さを感じる時もあります。

先ほど、何となく急に「窮屈」の反対語は何だろう…と思ったので調べてみました。

ひょっとしたら「寛容」かな…とも思いましたが「安楽」とか「自由」という言葉が出てきました。

技術がどんどん発達し、世の中がどんどん便利になるにつれて、いわゆる「自由」が少し制限され、何となく窮屈な部分も出て来ることになりますが、それでも「このまま加速しながら進む」ことが自信を持って「正しい」のかが、時々わからなくなる時があります。

僕なりの結論を言えば、これは「正しい」か「正しくないか」の二元論ではありませんし、少なくとも僕が生きている間は必ず技術は進化し続けますから、ちゃんと(いや、ちゃっかりと)技術革新による利便性を享受しつつも、自分がどのような選択をして行くべきかを考える時間も作ろうと思います。