通信① | 観音寺通信のブログ

     観音寺通信(近況報告)平成29年7月1日

                   山中暦日なし
 用事のない日は、新聞を取りに行き、その後車庫前の椅子に座って、自然の声を聴きながら、雲の流れ、小鳥、庭木の移ろいなどを眺めて、しばらくぼうっとしているのが私の日課であり、毎日の始まりである。今年生まれた子雀は桜の木の枝でゆらゆらしながら、何かを訴えるように鳴いてばかりいる。燕は電線の上、カラスは電柱のてっぺんであたりを睥睨している。燕は車庫の壁に3個の巣を作っており、子育ての頃はひっきりなしに餌を運んできて、非常に騒がしかったが、5月30日に巣立った、その後、子燕はあまり姿を見せないが、親燕は毎日帰ってきている。私の1メートルぐらいのところを自由自在に悠々と飛んでいく。
    花開けば蝶枝に満ち、花閉じれば蝶また帰る
     ただ旧巣の燕あり主人貧しくもまた帰る
 若い頃、少しだけ詩吟を習ったことがあり、先生は厳しく、最初から皆の前で独吟を命ぜられ、冷汗をかいたので、これだけはよく覚えている。
  その後、日経と朝日を読みながら、ゆっくりと朝食。日経の最後のページが一番の楽しみ、「私の履歴書」、20代にこれら偉人の人生談をもっと真剣に読んでおればよかったのにと思う。「文化欄」も時々いいものが掲載される。今の小説は「琥珀の夢(伊集院静)」、サントリーの創業者鳥井信治郎の物語、サンは太陽、トリイは鳥井だそうだ、信治郎の妻クニはなんと観音寺出身、サントリーの工場「山崎」はかつて山崎宗鑑(俳諧の祖)が住んでいた所、さすがは伊集院先生、宗鑑のこともちゃんと書いてあった。
 宗鑑は1465年に草津市で生まれ、足利義尚の家来、義尚が25歳で急死、宗鑑は出家、宗鑑の本名は志那弥三郎範重、山崎に隠棲し、山崎と名乗る。64歳の時、友人の梅谷禅師を頼って観音寺に来る。そして興晶寺の境内一夜庵で89歳で死亡、川中島の戦いの頃。
    犬菟玖波集
    上はたち中はひぐらし下は夜まで一夜どまりは下下の下の客
    宗鑑はいずこへと人問うならば ちと用ありてあの世へといえ(辞世の句)

                「よっこいしょ」の奥様
 地元の西讃観光は4年に1回西国33観音巡礼を企画している。前回に半分ぐらい巡礼していたので、今回残りのお寺を巡ることにした。前回、番外で善光寺へとバスが恵那山トンネルを過ぎた時、「御岳山が爆発した」とのニュースが入った、皆急いで窓の外を見た。しかし、何も見えず、後にテレビで大きな被害を知ってびっくりした。
 あれから早4年、5月20,21日で、施福寺、壺阪寺、岡寺、長谷寺、南円堂(興福寺)、番外高野山、番外四天王寺を巡礼、19名参加。皆は白装束、金剛杖、私だけは私服、バス旅行だし、なんとなくまだ抵抗がある。10年ぐらい前、金沢の尾山さんが母の供養にとお遍路に来た時に1番札所霊山寺で、私も白装束等を買った。
  壺坂寺は浄瑠璃の壺坂霊源記のお里沢一で有名、岡寺は蘇我氏の屋敷甘樫丘のすぐ上にあった。天武天皇の御子草壁の皇子の屋敷跡に建立、周囲には飛鳥寺等、万葉の遺跡が多い。
 今回の難所は施福寺、仁王門までの300メートルぐらいの坂道が苦しい。昔は仁王様のような足の筋肉をしていたが、すっかり肉が痩せて80キロの体重を支えるのに難儀している。下山の女性が、「使いますか」と言って杖を差し出してくれた。できるだけ汗をかかないようにとゆっくりと仁王門まできた。「あと30分」との標識があった。山道はふつう1時間で2キロ、あと1キロ、「中学時代には1キロは3分ちょっとで走っていたのにな」などと子供の頃を思い出したりしながら重い体を運んいった。
 その時である。「よっこいしょ、よっこいしょ」と大きな声が聞こえてきた。80歳のSさんの声である。「どっこいしょ」は「六根清浄」を意味するといわれるが語源は同じだろうか。大きな声を出す人はカラ元気で、そのうち黙ってしまうことが多い。しかし、Sさんは違う、声がかすれることもなく、むしろ、近付いてくるような気配さえする。皆も「よっこいしょ、よっこいしょ」と合唱して、最後の石段を登り切った。
 施福寺は空海が権操上人によって私度僧から官度僧になった寺である。遣唐使船に乗るためには正式の僧の身分が必要であった。31歳の時のこと、空海の大学中退からの10年間ぐらいの間の足跡は不明。
  宿泊は高野山金剛三昧院、開祖は栄西という、栄西は臨済宗では? 当初は禅定院と称し、頼朝公菩提のため、北条政子が創建したものとのこと。
 修行僧は大忙し、弓なりになって膳を何個も運んできて、てきぱきと並べていく。
 先達さんの指導に従い、「一粒のお米にも万人の労苦を思い、一滴の水にも天地の恵みに感謝して、いただきます。」と合掌して、精進料理をいただく。
 食事を終えて、MさんがSさんに「あんた、足が腫れているで、月曜日にはお医者さんに行かないかんで」というと、Sさん曰く「2日も遊んどんのに、月曜には畑に行って葡萄の世話をせないかん」
 翌朝6時30分、本堂で勤行。読経の後、高僧のお説教を楽しみにしていたが、「世界遺産になって、文化庁の指導が厳しく、建物や襖等の国宝の修理には億単位のお金が必要で、援助は半分しかなく、困っています」という話に終始してがっかりした。
 その後、奥の院にお参りした。敵味方関係なく、戦国大名等の墓が並んでいる。秀吉の墓もあった。秀吉は高野山焼打ちを計画していたが、老僧の説得で中止したそうである。                                    
  芭蕉の「ちちははのしきりにこひし雉の声」の句碑があった。芭蕉は13歳で父を亡くし、兄半左エ門が父代わり、藤堂良忠(蝉吟)に仕えたが、23歳の時に良忠が死亡、高野山に遺髪を納める一行に懇願して加わっている。「奥の細道」について、芭蕉は5年もの間推敲に推敲を重ねて、最初の1冊を兄半左エ門に贈呈している。行基の「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」が想い起こされる句である。


                ヤマボウシの花
 岡田さん(元愛媛山岳会副会長)からお葉書をいただいた。岡田さんとは松山勤務の時代、よく山に同行した。和綴じの「四国山岳夜話(上、下)(北川淳一郎)」を復刻に尽力されて、私も愛読させてもらっている。北川先生は四国の登山の草分け的存在で多くの岳人から尊敬されている。今はずいぶん便利になって容易に登山ができるようになったが、この本を読むと当時の苦労がよくわかるし、往時の人間関係の純朴さなどが温かく伝わってくる。越智先生(元高松地裁所長)も旧制松山高校時代に北川先生に憲法等を教えてもらったと言っていた。
 その頃(20年ぐらい前)、三好さんと一緒に岡田さんの家に行ったことがあった。庭にヤマボウシが植えられていた。ヤマボウシやオオヤマレンゲの白い花は無垢清浄で実に美しい。それが縁で私も春の植木市で買って納屋の横に植えた。順調に育ち、毎年清楚な白い花を咲かせている。葉書には「ヤマボウシの花は小さく咲いて、その花が大きくなる」と書いてある。毎年見ているのに気がつかなかった。来年は注意して見たい。

                朋有り遠方より来る
 6月22日、中国旅行(西夏遺跡巡り)から帰ってくると、柿と桜の葉が虫に食われて、ひどい状態になっていた。早速農薬を散布した。そして、後始末をしていると、車が止まり、男性が「このあたりに林さんという家がありますか」と尋ねられた。「林という家は何軒か、ある」というと、美人の奥さんが車を降りてきて、葉書を差し出した。なんと私の年賀状である。あて名は「杉崎伸児様」と書いてある。私が30歳ぐらい、彼が20歳ぐらいの時、北アルプス、南岳の山小屋で出会った。私は早朝奥穂の小屋を出発し北穂へ、そして大キレットを這い上がり、槍の肩の小屋に泊まる予定であったが、あまりにも景色が素晴らしかったので、南岳の小屋に泊まることにした。長い間じっと山を眺めていた。その時出会ったのが杉埼さんであった。彼は飛騨側から登り、私とは反対に穂高の方に縦走していた。そして、一緒に山の雄姿に感動し、日没までいつまでもいつまでも山を眺めていた。、
 それ以来、年賀状のやりとりをするようになった。こういう一期一会の山の友との年賀状の交換は10人ぐらいいたが、今では杉崎さんだけになっている。
 一晩ゆくっりと歓談したかったが、丸亀にホテルをとってあると言って、飛騨古川の名酒を1本くれて「林さん、古川に是非きてください」と言って早々に行ってしまった。お遍路にでも是非もう一回来てもらい、ゆっくりと歓談したいものだ。

                 雑談
 先日、友人ら5人で喫茶で昼飯を食べた。最初の内は、政治、経済など天下国家の話をしていたが、結局は老化、健康のことになった。すごい体験をした人もおり、薬品、医師、医療技術等にものすごく詳しい。健康管理、運動が大事、複数の友人から「林さん、歩くときは胸を張って、お尻で歩く、最近肉がたるんでいるようだ、いい自転車を買って毎日10キロぐらい走ったらどうか」とアドバイスされる。子供の頃は私の方が彼らよりはるかに体力があったが、現在は彼らに確実に負けている。少し上の先輩からは「60代はよかった、70代前半はよかった」と過ぎし日を回想する話をよく聞く。彼らは老いの道のよき導師だとつくづく思う。
 ヒンズー教では人生を「学生期、家住期、林住期、遊行期」に分けるが、私はもうすぐ71歳になる、林住期の終わり遊行期の始まりの時期、悪をなさず、ささやかな善を心がけて、残りの人生を大事に生きていきたい。