今から7年前、2013(平成25)年の秋、僕は或るクイズ番組にて元気を貰った男性会社員の方のことをブログに書きました。
そのクイズ番組とはかつて「日テレ」日本テレビ系の「木曜スペシャル」枠で1977(昭和52)年から1992(平成4)年にかけて放送された
『アメリカ横断ウルトラクイズ』
収録自体は毎年夏に行われていましたが、オンエアそのものは毎年秋だったので当時の日テレにとっては「秋の風物詩」的存在でした。
15年間の歴史の中でとてつもない数の挑戦者が僕達を楽しませてくれましたが、その中でも一番印象に残ったのは1986(昭和61)年の第10回大会で大活躍した
山下 哲也さん
大阪府出身でこの当時はコカ・コーラ社の若き営業マンでした。
1986(昭和61)年の第10回大会、
今は無き後楽園球場から『ウルトラクイズ』のモットーである「知力・体力・時の運」のドラマがスタートしました。
「ニューヨークへ行きたいかぁー!!」
「オゥー!!」
「罰ゲームは怖くないかぁー!!」
「オゥー!!」
「留さん」こと福留功男アナウンサーと挑戦者との掛け合いは『ウルトラクイズ』に於ける儀式そのものでした。
©️㈱日本テレビ放送網
記念すべき第1回目、1977(昭和52)年は400名程だった挑戦者も10回目のこの年は17,000名を超える程になっていました。
第一関門の後楽園球場を突破出来たのは僅か100名、
©️㈱日本テレビ放送網
「170分の1」という恐るべき倍率です。
後楽園球場を後に出来た喜びも束の間、
すぐさま成田空港へ移動します。
100名のうち、日本国を脱出することが出来るのは半分の50名、
通常はジャンケンで決まっていましたが、今回は何と腕相撲となりました…。
張り切りボーイの山下哲也さん、
この時点では単なる挑戦者の1人に過ぎませんでした。
©️㈱日本テレビ放送網
その山下さん、
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自身の力を精一杯振り絞るも叶わず…。
©️㈱日本テレビ放送網
しかし、神様は山下さんに再びチャンスを与えてくれました。
敗者の味方である「徳さん」こと徳光和夫アナウンサーの提案によって
©️㈱日本テレビ放送網
「敗者復活団体戦」なるものが行われました。
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徳光アナ曰く敗者の50名を5名ずつ10のグループに分けた上で
「我が読売ジャイアンツの山倉和博選手の背番号は15、
その山倉選手にあやかって5名×3グループ、15名が晴れて敗者復活となります!!」
徳光アナの粋な計らいにより2つのグループの代表者がクイズに正解して敗者復活となり、残りは1グループ…。
その時です。
土壇場で山下さんが見事にチャンスをものにして他の4名から胴上げされました!!
©️㈱日本テレビ放送網
ここから山下さんが番組に旋風を巻き起こします。
©️㈱日本テレビ放送網
張り切りボーイそのもののあどけない笑顔、
©️㈱日本テレビ放送網
得意分野の日本史が出題されると「ほい来た!!」
正解すると「よっしゃー!!」
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山下さんは回を重ねる毎に皆の人気者となりました。
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『ウルトラクイズ』は「知力・体力・時の運」だけあってハードな企画もあり、山下さんにも悪戦苦闘した場面がありました。
©️㈱日本テレビ放送網
しかしながら仲間思いの山下さん、
自身が難関をクリアしても他の挑戦者の方々のことを忘れていません。
「頑張れよ!!」
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福留アナからも「哲也」と呼ばれて愛された山下さん、
この回の放送では途中から挑戦者が北米ルートと南米ルートのいずれかを選択して聖地・ニューヨークを目指すルールを採用しましたが、何と山下さんが選んだのは後者の
「過酷な南米ルート」
©️㈱日本テレビ放送網
如何にも山下さんらしい選択ですね。
当然ながらアナウンサーも2名体制に…。
北米ルートは引き続き福留アナが担当しましたが、南米ルートに関しては日高直人アナウンサー、
©️㈱日本テレビ放送網
過酷な南米ルートのうち、第一関門のラパスをトレードマークである「ほい来た!!」「よっしゃー!!」の精神で突破、
いよいよチチカカ湖です。
©️㈱日本テレビ放送網
視聴者は勿論のこと、志半ばで散った挑戦者、『ウルトラクイズ』のスタッフ陣、
誰もが山下さんが聖地まで勝ち進むことを願っていましたが、その願いは叶わずチチカカ湖でついに力尽きて…。
©️㈱日本テレビ放送網
夢は果たせませんでしたが、苦楽を共にしたライバルは労いの言葉を掛けてくれました。
「自分(山下さん)が成田空港で正解してくれたから今まで一緒に戦えたんよ」
©️㈱日本テレビ放送網
大道進一さん、
思えば成田空港での敗者復活戦では山下さんと同じグループでした。
©️㈱日本テレビ放送網
成田空港にて胴上げされた山下さんと肩を組んで日本国からの脱出を喜ぶ大道さん、
©️㈱日本テレビ放送網
その大道さんを笑顔で見送る山下さん、
©️㈱日本テレビ放送網
まさに「戦友」でした。
「ブラジル行き決定、おめでとう」
1人取り残された山下さんは勝者を拍手で称えます。
©️㈱日本テレビ放送網
ところで山下さん、
ここで気持ちを切り替えなくてはなりません。
『ウルトラクイズ』には敗者に対して恐怖の罰ゲームが用意されているのです。
©️㈱日本テレビ放送網
その内容はチチカカ湖周辺の荒れ地を開墾してジャガイモを植えること。
日高アナもスーツ姿で手伝ってくれました。
©️㈱日本テレビ放送網
「NO.95 山下哲也
チチカカ湖に眠る」
©️㈱日本テレビ放送網
1986(昭和61)年9月29日(月曜日)、
山下哲也さんは帰国されましたが
©️㈱日本テレビ放送網
司会進行を担当していた高島忠夫さん
「全国からこの番組宛に山下君へのファンレターが沢山届きましたよ」
同じく石川牧子アナウンサー
「山下さんの『よっしゃー!!』には懐かしさが感じられましたね」
©️㈱日本テレビ放送網
山下さんにとってはこれ以上ない名誉でしょう。
因みにこの放送回で高島さんと石川アナが最後に飾った言葉は山下さんを意識してズバリ
「よっしゃー!!」
©️㈱日本テレビ放送網
あれから随分と時が経ち、今年2020(令和2)年の3月にビックリすることが起きました。
何と僕のブログに山下哲也さんからメッセージが届いたのです!!
この第10回『アメリカ横断ウルトラクイズ』が放送された1986(昭和61)年の秋、
当時13歳の中学1年生だった自分自身にとっては47年間の人生の中でも凄く苦しい時期でした。
それだけに山下哲也様には令和の現在でも感謝しております。
〈追 伸〉
ひょっとしたら日本史が十八番の山下さん、
「歴検」こと歴史能力検定協会から表彰されているかもしれませんね。
©️歴史能力検定協会
©️歴史能力検定協会
©️歴史能力検定協会
©️歴史能力検定協会
私は福岡県在住の「社労士」こと社会保険労務士です。
私は2012(平成24)年の11月から4年間に渡り
「合格基準が透明な社労士試験」
「受験生の努力が報われる社労士試験」
の実現を目指して日々奔走されていたtktkさんの活動を誇りに思っております!!