香山リカ氏「小出裕章氏が反原発のヒーローとなったもう一つの理由 」への反論
香山リカ氏(精神科医、立教大学現代心理学部教授)の仕事に、ぼくはこれまで敬意を払ってきたし、自著『イージー・ゴーイング』の帯に推薦の言葉をいただいたこともある。しかし今回、彼女がダイヤモンドオンラインに書いた「小出裕章氏が反原発のヒーローとなったもう一つの理由 」
には唖然とさせられた。
http://t.co/kpjtW6L
とうてい看過できないので、反論を書き記すことにする。
香山氏は、「ネットの世界を中心に、原発事故にのめり込んでいる人たちがいます」と書いている。
彼らの多くは、知的レベルが高く、情報収集に熱心で、いまの世の中の趨勢を注意深く見ている人たちだとつづける。
さらに、こんなふうに断定する。
「特に、これまで一般社会にうまく適応できなかった、引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めているように見えます」
そんな「彼ら」が「神」として崇拝しているのが、いま反原発で最も注目されている小出裕章氏です──と論理は展開される。
当たり前の話だが、今現在もっとも重要なのは原発の事故処理なのであり、福島の子供たちが内部被爆しているという事実である。リアルな現実の問題を、心の問題にすり替えているのだ。
連載エッセイを面白くするために、大胆に論理を飛躍させたのか? いやいや、これは意図的な逸脱なのではないかと、ぼくは氏の人間としての倫理をさえ疑わざるを得ない。
香山氏はまずごくシンプルに「原発に反対する人の中には心の病気の人がいます」というテーゼを「原発に反対するのは心の病気です」とすり替えているのである。
ぼくはTwitterやブログで、チュニジアのジャスミン革命にならい、まずネットで「原発はもう嫌だ」という空気を醸成し、それを脱原発100万人デモや「オペレーション・コドモタチ」の運動へつなげていくべきだと書いてきた。
ネットにおける原発情報の共有は、未来への貴重な種子である。
香山氏は、こうつづける。
「これまで大学の中で『冷や飯を食わされていた』小出さんが脚光を浴び、時代のヒーローになっていく姿は、彼らにとって理想のイメージ、希望の星、自分の願いを投影する存在になっているのでしょう」
彼らには自分が抱えてきたルサンチマンが一気に晴らされたという感覚があるのかもしれず、もうすぐ定年を迎えようとする年齢まで屈辱的な地位にいた人が、小出助教のようにいまや日本中で最重要人物の一人になるという姿に、彼らはおとぎ話のようなイメージを抱いているのではないか、と香山氏はご丁寧に分析する。
ここにあるのは、精神科医の視点などではなく、きわめて卑しい、「くらべない幸せ」(香山リカ氏の著書)とは対極の価値の一元化でしかない。
「彼らは、こころの病を患っているわけではありません。仮に彼らが精神科を訪れて、病名をつけなければならないとしたら、現実社会にうまく適応できないということで『適応障害』と診断することになるでしょうか。あるいは、世の中に対して恨みごとを言い連ねるタイプの人には『パーソナリティー障害』という病名を伝えるかもしれません」
この数行だけで、論理が破綻しているのは明らかだろう。
精神科医という立場にとどまるふりをしながら、世論を意図的にミスリードしようとしているのではないか──と言われても仕方がないのではないか。
多くの人々が、憤りに身を震わせている。自分の子供や家族や友人達、そしてもちろん自分自身の身をなんとか放射線から守ろうとしている。少なくともどうしたらダメージを軽減できるかと必死なのだ。香山氏のこのエッセイにおける記述はそういう努力をあざ笑うもので、とうてい許容することはできない。
「ファンタジーへの逃避で平穏を保ってきた彼らが、いま原発問題にこころの平穏を見出している」
原発問題にこころの平穏を見出しているだって? ここに至ると、彼女の論理のすり替えは意図的に巧妙で悪質だと言わざるを得ないのではないか。
東電福島第一原発の事故は、言うまでもなく現在進行中なのである。多くの子供達が今夜も、そして明日も危険にさらされ続ける。そういうわれわの現在の社会集団のどこを観察すれば、そんな寝言を吐けるというのか。
今糾弾されるべきは東電であり、経産省であり、政治家達ではないのか。
繰り返すが、ぼくは香山リカ氏のエッセイを、意図的な論理のすり替えなのではないかと疑う。
「ファンタジーの世界ではなく、現実のなかに逃避を正当化できるテーマが出てきたからです」
死に至る病の中へ逃避? 冗談ではない。われわれは、どうにもならないのなら死に至る病の圏外へ逃避しなければならないのではないかと、必死に情報を収集しているのである。東電も経産省も政府も、新聞もテレビも本当のことを言わないから、Twitterやブログをフルに活用しているのである。
そいつは、逃避どころか、前向きでポジティヴな、人間の尊厳をかけた必死な戦いなのだ。
「私たち精神科医は、逃避する彼らと現実との接点を作ることに腐心してきました」と香山リカ氏は書いている。
こういうのを、大きなお世話という。われわれは等しく、外部被爆という現実、内部被爆という現実と否応無く向かい合わされているのだ。そんなことは小学生だって痛切に感じている。
「……彼らが行動するのはあくまでもネットの世界に限定されてしまいます。熱狂する彼らがネット上で喧々囂々の議論をしても、現実に起こっている原発問題は何も解決しません」
「彼らが原発問題に熱狂して、彼らが何かを変えられるとしても、ネットの中の一つの小さなトレンドに過ぎません。現実に動いている体制には、大きな影響を与えることはできないのです」
本当にそうなのかどうか、まあ、高見の見物をしてるがいい。
ボブ・マーレィが言うヒューマン・ライツ、人間の権利を獲得するために、ぼくらは最後まであきらめるわけにはいかない。フェンスに腰かけた精神科医に、ぼくはボブ・マーレィの詩のフレーズを贈ろうと思う。
<あんたは時には誰かを馬鹿にすることはできるだろうさ
だけどすべての人類を馬鹿にすることは許されてはいないんだ>
"Get up, stand up" Bob Marley & The Wailers
友よ、誰が何と言おうと、今、一つのツイートがとても大切なのだ。
必死にがんばるしかない。
611の横浜のサウンドデモに参加して、"No Woman No Cry"で泣いたという人がいる。
あの日の「100万人デモ/パレード」は小さな勝利かもしれないが、とにかくわれわれは一歩を踏み出したのである。もはや引き返すことはない。
http://t.co/kpjtW6L
とうてい看過できないので、反論を書き記すことにする。
香山氏は、「ネットの世界を中心に、原発事故にのめり込んでいる人たちがいます」と書いている。
彼らの多くは、知的レベルが高く、情報収集に熱心で、いまの世の中の趨勢を注意深く見ている人たちだとつづける。
さらに、こんなふうに断定する。
「特に、これまで一般社会にうまく適応できなかった、引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めているように見えます」
そんな「彼ら」が「神」として崇拝しているのが、いま反原発で最も注目されている小出裕章氏です──と論理は展開される。
当たり前の話だが、今現在もっとも重要なのは原発の事故処理なのであり、福島の子供たちが内部被爆しているという事実である。リアルな現実の問題を、心の問題にすり替えているのだ。
連載エッセイを面白くするために、大胆に論理を飛躍させたのか? いやいや、これは意図的な逸脱なのではないかと、ぼくは氏の人間としての倫理をさえ疑わざるを得ない。
香山氏はまずごくシンプルに「原発に反対する人の中には心の病気の人がいます」というテーゼを「原発に反対するのは心の病気です」とすり替えているのである。
ぼくはTwitterやブログで、チュニジアのジャスミン革命にならい、まずネットで「原発はもう嫌だ」という空気を醸成し、それを脱原発100万人デモや「オペレーション・コドモタチ」の運動へつなげていくべきだと書いてきた。
ネットにおける原発情報の共有は、未来への貴重な種子である。
香山氏は、こうつづける。
「これまで大学の中で『冷や飯を食わされていた』小出さんが脚光を浴び、時代のヒーローになっていく姿は、彼らにとって理想のイメージ、希望の星、自分の願いを投影する存在になっているのでしょう」
彼らには自分が抱えてきたルサンチマンが一気に晴らされたという感覚があるのかもしれず、もうすぐ定年を迎えようとする年齢まで屈辱的な地位にいた人が、小出助教のようにいまや日本中で最重要人物の一人になるという姿に、彼らはおとぎ話のようなイメージを抱いているのではないか、と香山氏はご丁寧に分析する。
ここにあるのは、精神科医の視点などではなく、きわめて卑しい、「くらべない幸せ」(香山リカ氏の著書)とは対極の価値の一元化でしかない。
「彼らは、こころの病を患っているわけではありません。仮に彼らが精神科を訪れて、病名をつけなければならないとしたら、現実社会にうまく適応できないということで『適応障害』と診断することになるでしょうか。あるいは、世の中に対して恨みごとを言い連ねるタイプの人には『パーソナリティー障害』という病名を伝えるかもしれません」
この数行だけで、論理が破綻しているのは明らかだろう。
精神科医という立場にとどまるふりをしながら、世論を意図的にミスリードしようとしているのではないか──と言われても仕方がないのではないか。
多くの人々が、憤りに身を震わせている。自分の子供や家族や友人達、そしてもちろん自分自身の身をなんとか放射線から守ろうとしている。少なくともどうしたらダメージを軽減できるかと必死なのだ。香山氏のこのエッセイにおける記述はそういう努力をあざ笑うもので、とうてい許容することはできない。
「ファンタジーへの逃避で平穏を保ってきた彼らが、いま原発問題にこころの平穏を見出している」
原発問題にこころの平穏を見出しているだって? ここに至ると、彼女の論理のすり替えは意図的に巧妙で悪質だと言わざるを得ないのではないか。
東電福島第一原発の事故は、言うまでもなく現在進行中なのである。多くの子供達が今夜も、そして明日も危険にさらされ続ける。そういうわれわの現在の社会集団のどこを観察すれば、そんな寝言を吐けるというのか。
今糾弾されるべきは東電であり、経産省であり、政治家達ではないのか。
繰り返すが、ぼくは香山リカ氏のエッセイを、意図的な論理のすり替えなのではないかと疑う。
「ファンタジーの世界ではなく、現実のなかに逃避を正当化できるテーマが出てきたからです」
死に至る病の中へ逃避? 冗談ではない。われわれは、どうにもならないのなら死に至る病の圏外へ逃避しなければならないのではないかと、必死に情報を収集しているのである。東電も経産省も政府も、新聞もテレビも本当のことを言わないから、Twitterやブログをフルに活用しているのである。
そいつは、逃避どころか、前向きでポジティヴな、人間の尊厳をかけた必死な戦いなのだ。
「私たち精神科医は、逃避する彼らと現実との接点を作ることに腐心してきました」と香山リカ氏は書いている。
こういうのを、大きなお世話という。われわれは等しく、外部被爆という現実、内部被爆という現実と否応無く向かい合わされているのだ。そんなことは小学生だって痛切に感じている。
「……彼らが行動するのはあくまでもネットの世界に限定されてしまいます。熱狂する彼らがネット上で喧々囂々の議論をしても、現実に起こっている原発問題は何も解決しません」
「彼らが原発問題に熱狂して、彼らが何かを変えられるとしても、ネットの中の一つの小さなトレンドに過ぎません。現実に動いている体制には、大きな影響を与えることはできないのです」
本当にそうなのかどうか、まあ、高見の見物をしてるがいい。
ボブ・マーレィが言うヒューマン・ライツ、人間の権利を獲得するために、ぼくらは最後まであきらめるわけにはいかない。フェンスに腰かけた精神科医に、ぼくはボブ・マーレィの詩のフレーズを贈ろうと思う。
<あんたは時には誰かを馬鹿にすることはできるだろうさ
だけどすべての人類を馬鹿にすることは許されてはいないんだ>
"Get up, stand up" Bob Marley & The Wailers
友よ、誰が何と言おうと、今、一つのツイートがとても大切なのだ。
必死にがんばるしかない。
611の横浜のサウンドデモに参加して、"No Woman No Cry"で泣いたという人がいる。
あの日の「100万人デモ/パレード」は小さな勝利かもしれないが、とにかくわれわれは一歩を踏み出したのである。もはや引き返すことはない。