スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
(2023年 米国 マーベル/ソニー/アニメ)
今年の米国アカデミー賞「長編アニメーション賞」ノミネート作品で、
われらが宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』の対抗馬にして、
受賞最有力候補の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を観ました。
正真正銘の傑作!
こういう作品は、何年に一回しか出てこないと思います。
これが受賞じゃないかな?
すばらしかった!
今のアメリカ人に必要な映画だと実感しました。
アベンジャーズで燃え尽きてしまったかのように見えたマーベル。
どこに行ったんだろうマーベルの天才集団たちは!!と、この数年感じていたんです。
スパイダーマンのアニメ班に超一流の人材を集めてこの作品を作っていたのかな…と思うくらい、最高の出来、会心の作でした。
「千と千尋の神隠し」を観た時と同じような衝撃を、観終わった後に「これはすごい!」とエンドロールが始まった時に、大きな声を出して、ブラボー!と拍手!(※自宅です)
しばらく、語りが止まらず、アメリカという国について1時間くらい議論しっぱなし!
そしたら「君たち…」って改めてみると、作品の質がむちゃくちゃ高いんですね。
(やっぱり綺麗だなあ…。奥深いなあ)と、もう観た映画なのに、ドキッとさせられるシーンが多くて、
(これ、わかんないぞ!!)とまた、「君たち…」と「スパイダーマン」の一騎打ちだろうなあ。
「君たち…」は秀逸!という評価ですが、
ただ、「傑作!」といえるのは、こちらスパイダーマンなんですよね……。
あまりにも最高すぎたので、ゴシップ話も思い出して、
ピクサーで、ちょっと前にセクハラ騒動があって、ピクサーの優秀な人達が辞めてったという話がありましたよね。
この映画見終わってから、「ピクサーのアニメーター、全部、スパイダーマンのチームが引っこ抜いて、この作品作ったんじゃないの?」と憶測話でも盛り上がるくらい、出来が良かったです。
※セクハラ騒動って、狂言だったんですよね。
ピクサーの優秀なスタッフ、だいぶ辞めちゃったそうですけれども、どこに行ったんでしょうね。
米国特許庁に申請した今作の(CG+手書き)アニメーション技術を見よ!
最高だったのが、米国特許庁に申請を出したという、スパイダーマンアニメの技術「CGの上に手書きで色を載せて、アメコミっぽい画面のアニメーションを作る」という、その技術が、前作(2019年)の『スパイダーマン:スパイダーバース』よりも進化していて、アメコミの絵のままアニメが動くという、驚異的なことを実現していました。
前作はその技術をちょっと出ししてたのが、今回は全編フルで特許技術のアニメーション技術で作られていて、別に「ドヤ!」感を出してるわけではないのでしょうが、手書き漫画のテイストだから、アシッドな感じがすごく、熱い!
「ドヤ顔」感がすごい!
登場人物はCGで限りなく人間に近い描き方をされていて、近未来的な映像なんですね。
でもでも、だってこの映画の技術、圧倒的にすごいんだもの、どうぞ思う存分、ドヤ顔してください! と見惚れながら鑑賞。
(沖縄だと、作者の人達「ナマジラーだはずねー」とか言いますけど、「どうよ!」と思いながら作品を作ってるスタッフの顔が見えてくる感じがすごいんです。本当にすごいから)。
そういえば過去のスパイダーマンとか、CGで作ってるから「綺麗すぎる!」感じでしたよね。
綺麗すぎるといえば、ドラえもんのアニメも、綺麗すぎて「だれ?」みたいなアニメ映画が発表されてましたよね。
「原作の漫画の画風のままアニメーション化したい」という願いは、
世界の漫画原作のアニメーション作家の悲願だったんじゃないでしょうか。
CGで映像を作るだけでなく、最終的に「手書きで色を塗る」という、おそろしく手間のかかる、
昭和のアニメーション技術(アメリカだと昭和って言わないですね)、
古い技法を盛り込んで、結局「手仕事が一番だよね!」というところに帰結させて、
「職人仕事最高!」という原点回帰感もすばらしいし、
これこそ「マルチバース」の作品を作るのに適した手法はないと思いました。
パラレルワールド<マルチバース
スパイダーマンをマルチバースにして、異次元のスパイダーマンが結集する「スパイダーバース」が、
これまた最高で、いろんな世界(異次元)をどんどん見せてくれるのですが、
昨年の米国アカデミー賞のエブエブは、こういうスパイダーマンやマーベルのパロディだったんだなあ…とおもったり。
そういうアメリカの映画業界の状況をふまえて、マルチバースのご本家マーベルは、ここはやっぱり、「スパイダーマン」でがっつりマルチバースのストーリーを、つくってしまったんですね! 恐竜スパイダーマンもいるし、秋葉原女子高生風のメカスパイダーマンオペレーターとか、なんでもありじゃないか!という。
伏せている間、ドラマの「ロキ」の方でマルチバースでえらく面白いことをやっていて、ワニロキが出てきた時点で、「完全に面白がってるな」という止まらない勢いはマーベルにはあったので、ここでドカン!と表に出してきたな!と実感しました。
マルチバースのご本家、マーベルの本気を見よ!
満を持しての、満を持しての、2019年『スパイダーマン:スパイダーバース』、続編の2024年の今作だったり。
パート2の今作、最高の出来です!
どうしよう、こんなにパート2が面白いのに、パート3が面白くなかったら……。
マーベル作品ってたまに、パート2が傑作で、パート3は話を完結させるために、無理くりな展開で、なんだかつまらなかったということ、ちょっと、ありましたよね。
ぜひとも、このスパイダーマンシリーズは、パート3で完結しないなら、4、5と続けて、クオリティを落とさない!それでがんばってほしいと思います。
「もしあの時、手を離さなければ…」という大切な人を失って知る大きな後悔
でも、マルチバースの感覚というのは、移民でアメリカに渡った人達にとっては、「もし故郷に残っていたら自分は…」というIF…の自問自答、思いは常に脳裏にあるんじゃないかなと思います。私ですら、「いまも沖縄で暮らしていたら別の自分がいて…」と考えるし、それはとてもリアルに別の自分が想像出来てしまいます。
日本はほとんどの人が老衰で、病気で死んでいきますが、アメリカは軍隊を持つ国で、米軍は海外の紛争地域で戦争に参加していることも少なくありません。それで命を落とす仲間や家族、親戚がいて、戦死の知らせは突然舞い込むもので、「あああの時止めておけば…」という後悔、「IF…」は常に脳裏にあって、天国で幸せに生きているに違いないとか、違う階層の世界で生きてるかも…と妄想を膨らませることで死者の魂がどこかで幸せに生きてることを願って、喪の仕事をしてたりするんじゃないでしょか。
マルチバースのスパイダーマンという発想は、幾多の闘いで死んでしまった人への追悼や「生きていてほしかった」という無念が、架空の物語の中に反映されていて、マルチバースの世界に浸ることが、心を慰める行為になってるんじゃないかなと思いました。
スパイダーマンは1962年誕生した漫画(アメリカンコミック)で、64年の歴史をもつキャラクターですから、スパイダーマンを読みながら空想の世界にふけっていた子供が老人になって、子供や孫と「正しいことを行う勇気を持つ」ことの大切さや、でも「絶対正義君がいつも正しいとはかぎらないんだ」という話をして、64年間、アメリカ国民のそばにあったわけです。
赤ちゃんや妊婦さんが出てきて、ママの言葉がやさしい♪ おまけにパパになってるし!
今作では、妊婦さんや赤ちゃんが出てきたり、お母さんとの関係、お父さんとの関係が繊細に描かれています。
これまでのマーベル作品は、闘ってばかりで、男性ホルモンが強い人が作ってる(という表現はハラスメントになるんでしょうね)作品から脱却して、よりヒューマニズムを追求するアプローチに深化していると思いました(なんのこっちゃ)。
スパイダーマンといえば「ピーターパーカー」。
最愛のガールフレンドがビルから落ちて、助けられずに死んでしまい、
おばさんかおじさんが巻き込まれて死ぬ、
そしてピーターは悲しみをしって大人になる、というお約束がありました。
ピーター呪われすぎでしょう!
スパイダーマンのイニシエーション、お約束の悲劇をいつまで繰り返すのか。
ゆるいピーター・パーカーのフィギア発見!
スパイダーマンは第二世代へ
悲劇がお約束だからって毎回同じことを繰り返したら成長がないし、
だからこそのマルチバースでよ。
このシリーズからは、
黒人の少年モラリスが「偶然、放射能クモ」にかまれてスパイダーマンになってしまうという、
第二世代のスパイダーマンが出てくるんです。
その世代交代もうまく成功していて、マルチバース世界から「ピーターパーカー」がたくさんやってくるから、
世代交代というより、ピーターパーカーとイイ感じでファミリーになっていきます。
たしかに「偶然クモにかまれた」のはピーターの専売特許ではなくて、
私だって近くに放射能クモがいたら、私だってスパイダーマンになる可能性はある。
という意味では、おかしな話ではない。
スパイダーマン64年の歴史の中で、スパイダーマンは孤独なヒーローから卒業して、
「みんなの心の中にスパイダーマン」はいて、スパイダーマンはひとりぼっちではない
ということがよく伝わってきました。