幽霊は信じない。だけど感じる。
昨日は朝、東京でも地震がありました(震度4)。
こういう、ちょっと大きめの地震があると(ああ、いよいよか…)と自分にも最期の瞬間が迫っているのかと、
せわしない気持ちになります。
とはいえ、昨日は取材で、朝9時半には電車に乗って川崎に行きました。
電車動いてました。電車が止まるか遅延で取材中止かな…と考えていたのに、
へえ、普通に動くんだ…(今日本震が来たら私は家の近くで死ねないんだな…)と変なことをかんがえたり。
冬の休日の朝の電車、乗客の半分は寝落ち状態でした。
サンクチュアリか?というくらい、電車の中は静かでした。
私もついウツラウツラ。
朝あんな地震があって、朝っぱらから緊張しましたからね、座ったらホッとしてしまったんですね。
電車の中はガタンゴトン、ポカポカ暖かいし、のんびりとした空気が流れていて、寝てる人多かったです。
起きてる人はほとんどスマホを見てました。浮世を忘れた忘我の世界にトリップしてるんですよね。
私は、地震があった日は、ちょっと情緒不安定になります。
自覚してるので、「今日は無理せずにすごそう」、意識的にゆっくり行動しました。
朝の地震が余震で、続いて大きな地震が本震で来る想定をしながら、一日のスケジュールをこなすんです。
憂鬱だし、慌ててもしかたないから、ゆっくり行動したんです。
緊急事態に備得る時は、心も体も余裕を持っておいて、呼吸を調えていた方がいいんですね。
緊張感が必要な場面では、坂本龍馬じゃないけど、あえて体をユルユルな状態にしておくんですね。
死んだ人は怖くない、恐ろしいことをするのは「生きてる人」
漠然とした恐怖感って嫌なもんです。
うちの隣にお墓があって、夜、恐かったんですよね。
だから、子どもの頃から、ちょっと不安があるとすぐ情緒不安定になる子供でした。
幽霊が見えないけど、窓の外にはいつも何かがいるような気がしてたんです。
たまに泥棒やのぞき見の人とか、実際に「生きてる人」が窓の外にいたこともあったんですよ。
中国からの亡命難民とか沖縄に漂着して、近くの墓地(古墳)のある山に逃げ込んでる時期があったので、そのころは、なぜか食卓に置いてあったみかんとかバナナとか、食べ物だけなくなるという事件があたったので、事実、夜の暗闇の窓の外に「人がいる!」ということがよくありました。幽霊じゃなくて「訳ありの生きてる人」が、いたんです。
なんだかよく分からないんですけれども、恐かった。
ご近所さんが中国人だったと話していて、沖縄戦の生き残りだった父が「避難してきた中国難民だな。どれだけ辛い思いをしてるか。あの人達は食べ物がないんだよ」と「おなか一杯食べさせてあげたい」「それで安心してもらいたい」「それでちょっと話をして、難民受け入れの施設を紹介したい」と言い出して、父が夜中、寝ずの番をして、夜中窓を開けて、家の居間で「闇の中からやってくる来訪者」を待ってたり、当時の私は10代の花も盛りの娘っ子なので、しょうじき言うと、そんなことをしてる人道主義者の父の行動も内心怖かったですが、「僕にまかせろ」と言った父を信じて自分の部屋で寝てましたが、追い詰められた人が父を攻撃するのではないかという不安もあったし、当時は浅い眠りで不眠症でしたよ。(なんで中国共産党は自由を認めないんだ!)と憤りを感じたり、その後大学生になってから台湾人留学生と意気投合して、言葉がろくに通じないのに飲んでゲラゲラ笑って騒いでましたが、あの時の反動だったと思います。
でも、沖縄は戦争もあったし、家のそばに野戦病院の跡地があったので、幼いころから、やっぱり「幽霊、いるでしょ!」と確信してました。
だから、見えないけど、いるような気がして、子供の頃は急に怖くなって「お願いです!怖いから幽霊さん出てこないでください!」と大きな声でさけんだり、子供のころから、まあ、ノイローゼでした。トイレに一人で入るのも怖かった。「今おしっこしてるから、怖いから幽霊さん、出てこないで~!」と声を上げながらトイレに入って、トイレを流したらダッシュでトイレから出て、「怖かった~!」と泣いたり。
今は墓地など全くない、激戦地でもなかった元田んぼの住宅地に住んでいるので、なんとまあ安眠して暮らせること!
だけど墓の隣で育ってしまうと墓に成れてしまい、高校生くらいになった頃には夜中に墓を見ても何も全く感じなくなってました。それで20歳を過ぎたころには、お寺さんから「おたくのお嬢さん墓を全然怖がらないそうですね。ぜひうちの寺の嫁に」というお見合い話もいただいたりしてましたよ。
大人になる頃には気付いてました。
死んだ人は全然怖くない、怖いのは「生きてる人」の方だという真実に。
死んだ人は危害を与えないんです仏様だから。
「何をするか分からない、ヤバい状態で生きてる人」の方が怖いんです。
とくにお墓のような場所に、墓地に隠れながら「生きてる人」という人は、ヤバい。
たしかに、お寺さんのように、夕方5時すぎたら門を閉めて、誰も入れない墓地というのは全然怖くないので、怖くなかったんですね。お寺の墓、全然怖くないですよ。
幽霊の存在を感じるのは神経が過敏になってる時
でも、そんな私でもたまに「霊」の存在を感じて、体調を崩すときがあります。
親しかった人が亡くなった時です。霊の存在をものすごく近くで、ずーっと感じたりします。
♪ビンカンになっちゃって、あいつはノイローゼ yeah♪(by忌野清志郎)みたいな状態になります。
おそらくそれは私の妄想で、自分の心の整理がつかないからザワザワ、五感がエラーを起こして、
「喪の仕事」として、五感で覚えているその人の記憶も総動員して、一気に妄想が発動してるんですね。
「お別れ」の会話やストーリーを脳内で妄想して、起承転結を作って、目の前に相手がいないのに、話しかけたり、悔やんだり、感謝したり、それを言葉にだしたり、ソワソワしたり、そういうことを繰り返しているうちに、心を整理して、大好きな人の死を受け止めるんですね。
親しい方の死の場面でなくても、災害で多くの方が亡くなった時は、災害のニュースを見た時は、特に一度訪れた場所だったりするとスイッチが入って、ソワソワ、ゾワゾワが始まります。
東日本大震災で大被害があった時に、人道支援をしよう、私も役立つことがあれば!と考え、2011年の7月に被災地に行きましたが、そこでも発動してしまい、ダメでした。
一気に70人くらい、霊がワサワサしてるのを感じてしまいました。
(というか、脳内で再現ビデオみたいなのが始まって、いろいろ見えた?というか、感じてしまいました)
私が見たのは、地震が起きたあとに「津波が来るぞ!避難しよう!」と町内の皆さんが騒然としながら、助け合う姿でした。
「1人暮らしの●●のおばあちゃん来てる?」とか、「さっきみたよ!」と声かけあってる場面で、「おばあちゃん怪我ないか?」と声かけしあってる場面でした。
近所の人達がお年寄りや子供が多い家の人たちの避難を助けながら、みんなで協力しあって、声かけあって、高いところへ避難誘導している場面で、ホステス風のおばさん(スナックのママさん)がおばあちゃんに「頑張って!もう一段上がって!」と声かけしたり、「大丈夫だから!」とお母さんたちが子供を抱っこして、おじいちゃんが動けないで周りを見てたりとか、「頑張ろう!がんばろう!」と声を掛け合ってる場面です。「大変なことになった」「○○さん家はダメだった」と階段の曲がり角でひそひそ声で話してる人達もいたし、いろんなストーリーを一気に見ました。
なんというか、「念」が残ってる感じで、私が見た世界には生き残った人も亡くなられた方も混ざっていて、ビルの高層階に避難してきた人達の中に、亡くなられた方の霊も自分が死んだのに気が付かずに、ちゃんと真面目にビルの高層階に避難して来ていて、ちゃんと自分も自力で頑張って避難してこないと、町内会の皆さんに迷惑になると、頑張って避難してきて、そこにいるんだけど、その方亡くなった方なんです。すごい心細いんだろうなというのは分かって、生きてる人が頑張って、町内会の皆さんで行動して、助け合ってる避難場所に、ちゃんと幽霊になった皆さん、きちんと真面目についてきてたんです。
で、生きてる人で「見えてるおばさん」がいて、「大丈夫だよ」と死んでるけど死んだことに気が付かないで、ちゃんと自分で避難場所までたどり着いた、おばあちゃんに話しかけてたんです。
それで生きてるけど見えるおばさんが「死んだおばさん」を連れてきて、その人に死んだおばあちゃんのお世話をお願いして、死んだおばちゃんは自分が死んだのを理解してるから、「おばあちゃんは私と一緒に行動しましょう」とおばあちゃんのお世話係を買って出て、「おばあちゃん一人じゃないからね」としんだおばちゃんが死んだのに気が付いてないおばあちゃんを励まして、死んだ人のグループで「死んだ人達」をとりまとめて班行動みたいする感じで、おばあちゃんも自分の班が出来たから、ほっとたご様子でした。おばあちゃんはおばあちゃんだから、あまり動いたら迷惑だし、お年寄りだから動けないし、ただ隅っこにちょこんと座っていて、じっとして動かずに、ちょこんと座っていらっしゃいました。
だから、ちゃんとおばあちゃん、おばあちゃん死んだの気が付いてなかったけど、死んだおばさんが、ちゃんと三途の川までみんな町内会の人と一緒に行くんだろうなあという、ストーリーが見えたんです。
私が、最初に見えたのは、隅っこでちょこんと座ってるちっこいおばあちゃんでした。
あれ?と一瞬思って、そこからうわーっ!っと世界が見えたんですね。
「念が残ってるんだな」と気が付きました。
津波がくる直前のあの時間、怖かったんだろうなと思いました。
死んじゃってるおばあちゃんだけど、高層階の避難場所に着いた時に、こえかけしてくる町内会のおばさんたちにほっとして、ここに座り込んでしまって、「助けてくれる人たちがいる」ことに感謝の気持ちみたいなものがおばあちゃんから出ていて、その思い、念がビルのはじっこにとどまってました。
そこ、東日本大震災でも特に大きな津波が発生した町だったんですね。私が宿泊した建物の中で見えた光景でした。
その建物の下の階では多くの方が亡くなって、私は上部の階に宿泊したんです。そしたら脳が発動してしまって、見えてしまいました。
情報を大量にインプットすると、隠し事も分かるときがある
私、妄想力がたくましいんですね。
なんというか、大川龍法さんの「故人の著名人を降ろしてみた」系のトーク、私、出来るんですよね。
でも、この妄想力、正確にいうと妄想力ではなく、「推理力推察力」なんですね。
状況証拠になる事柄が眼や耳から情報がインプットされると、自然に脳がAIのように推理力推察力考察力を駆使して推理して、「こういう経緯、こういう流れが!」という映像やストーリーが出来上がってしまうんです。答え合わせのように、合ってるんだか間違ってるのかよく分からないのですが、映像とストーリーが出来上がるんです。
で、妄想力はあるけど、没入しないので、醒めてるんですね。現実に足がついてる状態。
ものすごい違和感のある場所に行ったとき、違和感を感じる人に出会ったとき、違和感を感じる事象に遭遇した時、脳のAIみたいな部分のスイッチが入るんです。
ものすごいスピードで、相手のことが理解できたり、状況が把握できたり、「おもんばかることができる」と出来るというか、お察し申し上げることが出来ます。それで、犯人逮捕(警察に協力)したこともあるので、たいしたもんですよ。
ただし、たまに壮大な勘違いをすることもありますが、それは情報不足や誤った情報を入手した時は勘違いしたまま推理しますから間違うんです。だから、「私は霊能者だ!」とは口がさけても言いません。インプットされた情報に左右されて「再構築」するAIに近いんだと思います。
だから、霊感があるとか、精高い(沖縄で霊力がある人をさしていう言葉)と言われる人達の方には分類されないように気を付けています。だって霊能者じゃないから。「私はユタでも神ンチュでもありません。違います!」と沖縄の人にはいいます。
沖縄で下手に「私わかるんです」「私みえるんです」「私きこえるんです」と言ったら、その道の人から細かい審査というか精査を受けます。それで、「修行に入りなさい」と言われるか、「可能性はある(勘がするどい)けど、弱いから霊に負ける」(☚私はこっちでした)、「あの子は違うよ(精神異常、虚言癖)」と診断されてしまいます。
だから、沖縄の霊能者かどうかを判断するユタの皆さんには、「私は霊能力はありません。何も見えません。話や状況証拠から推理推察するクセがあります。心理学も勉強しまくってます。警察官のように状況証拠を見て、知識を総動員して、こうじゃないかと言った推察の話がよく当たりますが、それはただの推理です」と、先回りしてお話をします。
飲み会の席で匂わせ発言をした友達の秘密に気が付くこともあるので、話を変えてあげたりもします。それで、あとで「あの時話を変えたとね。気が付いたんでしょ」「なんで私の秘密がわかったの?」「なんで知ってるの?」と言われて、ストーカーのように追いかけられたことがあります。(だって気がついたんだもの!)としかいえないのですが、直感ではなく、精密に観察した上での推理です。
私、人と会って話をするときにその人の人となりをチェックするポイントが、普通の人が100か所だったら、私は300か所くらいチェック項目を持ってるんだと思うんです。
分からない人には分からないんですね。
特に推理推察する習慣がない→そういうことをしなくても幸せに生きていける環境で育った人はチェック項目が少ないから、気が付かずにスルーしていくんです。私は常に子供のころから(幽霊?人?窓の外にいる存在は誰?)と気を張って生きてきたから、状況証拠やチェックポイントをいくつも知ってるというだけで、「私は霊能者ではないが勘はいい」「推察、推理力が高いだけだってば!」ということを、説明しながら生きてきたんです。
妄想・想像は自分の心を救う。推理推察は相手や自分の心を救う
話を元に戻すと、私は「幽霊を信じません」。なのですが「感じます」。
幽霊は一切信じてないのですが、恐いことがあったり、極限状態に置かれると、「妄想」が発動して、恐怖をやわらげるように関係妄想を意図的にコントロールするクセが私にはあります。「人はそういう関係妄想をリアルに現実のように感じる」傾向があるということを私は知ってます。
心の整理をするために、その錯覚はとても大切なんですね。
整理できないモヤモヤ。
部屋のお掃除もそうですけれども、整理整頓、全部がキレイに分類して収納できるわけじゃないから、「雑多なもの置き場」というのを私は作りますが、その「雑多なもの、その他、未整理置き場」に相当する、心の中で整理出来ていないものは、「幽霊」に区分けする、これって心の平安をキープするのに有効なんですね。
それで、私の心の機能の働きとして「何かをビンビン感じる」のは事実なんです。
鳥肌が立ちまくるとか、背筋がゾッとするとか。
恐い場所に行ったら「よし!楽しいこと考えよう!」といきなり、ピンクレディや松田聖子をメドレーでうたったり、「食べたいお菓子」を順番を上げて考えたり、思考が「怖い」に行かないように、楽しいことで脳みその中いっぱいにします。
最悪それでも怖い時は、「こんな暗い人気のない場所。カップルが隠れて密会しててキスしてたりしてたりしたら、こまるなあ…」といやらしいことを考えて「私ってHだわ。変態みたい!」と自責の念にかられる自虐的な脳内ゲームをしてみたり……、どんだけ怖がってるんだ!という話なんですけれども、恐怖感を薄めるためなら、私、そこまで徹底的に「妄想」を活用して、恐怖感をコントロールしてるんです。
ああ、恥ずかしいはずかしい。(ほら、恐怖の話ではなくなりました!)
虐待を受けていた人の妄想は「自罰と他罰」に走りがち
私の知り合いで、おそらく幼いころからの教育虐待で自己愛性パーソナリティ障害になってしまった人がいて、統合失調症的な言動をしてる人がいいます。この人の言動には矛盾があって、たまに迷惑なことがあるので迷惑な時はビシッと否定するのですが、その後、その矛盾の言動を後で「霊障でした」というんですね。「霊のしわざだった」というんです。
対話をしてみましたが、どうも幼いころから教育虐待をうけてたっぽい人でした。
ミスをしたら異常な怒られ方をする(虐待)を受けてきた人だから、自分がミスをしたり失敗をしたら、命がけで誰かのせいにして、無実の他人にミスや罪をなすりつけて、大変な勢いで攻撃する感じでした。その時の他人を犯人に仕立てて攻撃するやり方が異常で、内容も支離滅裂だから、「はあ?」「どうなってるの?」とまわりもポカーン。
自分がミスをしたり失敗をしたら半殺しをされる人生を送ってきてるから、その場しのぎのウソで親からの教育虐待の半殺しからサバイバルしてきてるんですね、この方「○○ちゃんがやった。私じゃない!」。その自覚がないんですね。自分は被害者だと本気で思い込むようにしながら嘘をつき続けて身を守ってるから、支離滅裂なことを真顔でいうし、信じ込んでるんです。
だけど、矛盾点だらけだから、「論理が崩壊してます」と矛盾点を指摘すると、その人のメンタルが崩壊してしまうんですね。
自分がミスをしたら、「あっ‼ごめんまちがえた!」で終わるのに、しにものぐるいで、自分以外の人間を犯人に仕立てて、「あの人が悪い!」とやるんです。自分は悪くない!ということにしないと虐待されるから(感覚的には半殺しに近い身体的暴力とか、心をズタズタにする人格攻撃を受ける)から、必死で隠してるんですね。
私が知ってる人は60歳近い人ですけど、長い人生、それでずっとやってきてるから、友達いなくて、ボッチで、それで、ずーっとずーっと長い間、一緒にご飯食べてくれる人がいなかったようです。それで孤食が続いていたようです。孤食って偏食するようになるんです。それで、食事について質問したらやっぱり超がつくくらいの「偏食」でした。
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