実は、本日8月29日は、金春流能楽師であった祖父・梅村平史朗の、命日になります。
私の初舞台の3か月後に亡くなりましたので、丁度40年前になります。
先週のこと。その祖父の高弟であり私の恩師富山禮子先生からでした。
富山先生の弟子の女性能楽師から「富山先生から山井先生へ渡して欲しいとお預かりしてきました」と、ひとつの包みを受け取りました。
開けると、『御祝 富山禮子』と書かれた御祝い袋でした。
何でも、私の重要無形文化財認定や能楽協会理事就任への御祝いに、とのこと。私は「これはこちらが御礼を申し上げないといけないのに逆だ」と恐縮してしまい、富山先生へお電話をかけて、今週最初にご自宅へ伺いました。
「貴方は忙しいんだからいいわよ。」という恩師を押し切っての訪問でした。
富山禮子先生。御年91歳。私の祖父・梅村平史朗の高弟であり、私を能楽の世界へ誘って下さり、祖父の芸を伝え私の能楽師の礎を創って下さった『能楽の母』です。
ご自宅へ伺うと、富山先生は稽古場の横の部屋に椅子に腰掛けられ、本をお読みになられておられました。(私へお茶を出して下さるご用意の時に傍らに置いてある本を見たら、白洲正子の本でした)
私は、この6月の能楽協会理事就任と、10/26山井綱雄之會のこと、今年が富山先生の能「柏崎」の子方(子役)にて初舞台を踏んでから、40年の記念の年であることをご報告して、心からの御礼を申し上げました。
「良かったわねぇ。しっかり頑張りなさい。」
と仰ってくださいました。
私が5歳から25歳まで師事した富山先生のお稽古は、まず、お茶とお菓子がでてきて、それを頂いてからお稽古が始まるのが、通例のパターンでした(笑)。40年経った今でも、富山先生は変わらず、45歳になった私にお茶とお菓子を出してくださいました。そして、私はそれを変わらず頬張るのでした(笑)。
藤沢にある富山先生のご自宅稽古場へ、初めて伺った当時のお話になりました。
今廻りはすっかり住宅地となりましたが、あの当時はまだ自然も豊かで、廻りが見渡せました。
幼稚園児で母と通っていた私が母と稽古場で喧嘩になったそうで、富山先生が「じゃ、綱ちゃんひとりでいらっしゃい」と仰って、それからずっと、私は富山先生の元へ一人で電車とバスを乗り継いで通い続けました。「よくあんなに小さかったのに、通って来たわねぇ。」そんな、たわいもない、昔のお話を色々としました。
「さあ、貴方も忙しいんだから、お帰りなさい」。そう施され、お暇しようとした時に、富山先生も椅子から立ち上がられました。
富山先生はこの3月に外出先にて転倒され、大腿骨などを骨折されて、この春は手術・入院・リハビリをされていました。
稽古場をスタスタと歩かれたので、「先生、摺り足は?」と思わず言ってしまいました。。
実は、骨折されて以来、もう舞の稽古はされていないとのこと。それを知っていましたが、「激しい曲はともかく、ゆっくりなものでしたらお出来になるのでは?」と、思わず申し上げてしまいました。。
すると、「そうねぇ、、」と言われながら、摺り足を始める、恩師。
私には何の違和感もなく見えましたので、それに畳み掛けるようなことを申し上げました。
「違和感はあるけど、、、ちょっとやってみるわ。」と恩師。
これで直ぐに復帰とか良くなるとかは時期尚早としても、恩師の復活の第一歩を後押し出来たことは、嬉しいアクシデントでした。
我が『能楽の母』・富山禮子先生。
先生がいなければ、私は存在していません。
ありがとうございます!
そして、何時までも、お元気でいて下さい!
祖父もきっと、富山先生に感謝していると思います。
(恩師富山禮子先生。先生の松尾芸能賞授賞式にて。)
