私が、今の療養中に考えていたことを、1つ。
ここでも度々書いてますが、私は大のプロレスファンです。
子供の頃から、今でも、よく観ています。
私の子供の頃の、馬場・猪木、タイガーマスク、マスカラスの時代から、鶴田・天龍、藤波・長州、そして、闘魂三銃士、全日四天王へ。
時代が変わり、K1、PRIDEの総合格闘技が全盛の時に、プロレスは衰退した。
会場に行っても、空いているな~という印象でした。
試合も、イマイチ、でした。
それから、ちょくちょく、チェックはしていたものの、試合は久しく観に行っていませんでした。
実は、この夏に(もちろん、骨折の全然前の話です)、久し振りに、プロレスを観に行ってきました。
今、プロレス業界最大手の、新日本プロレス です。
今、私が一番好きなレスラー、「スイーツ真壁」こと、 真壁刀義 選手がいる団体、というと判りやすいかもしれません。
久し振りの新日本プロレスの観戦。
満員の観客で、物凄い盛り上がり!
一昔の新日本プロレスとは、すっかり様変わりしていました。
もちろん、物凄い、レスラーの頑張り!!
命と人生をかけて、ぶつかっていて、本当に感動しました!(私がその後の舞台で骨折となったのも、これを観て燃えてしまったからか?苦笑)
今、新日本プロレスは、どの会場も大盛り上がりで満員で、業績は右肩上がり!なのです。
その、現場のレスラーの身体を張った頑張りと共に、よく言われているのが、親会社の戦略。
新日本プロレスオーナー、木谷氏のインタビューは、とても面白いものでした。
(添付の対談からの引用です)
~~~~~~
木谷 3年ぐらい前だと思うのですが、「すべてのジャンルはマニアが潰す」って言ったんですよ。いまだにツイッターでリツイートされていて。
入山 インパクトがある言葉ですよね。
木谷 この言葉は、プロレス以外にも色々なところで引用されているようです。例えばSF小説とか、プラモデル、あとラジコンとかいった分野です。確かに僕の目から見ると、これらの分野もマニアのせいで衰退したジャンルだと思うんです。
入山 面白いですね。SF小説がそうなんですか。
木谷 先駆者がいるジャンルに、後から入って市場を拡大するのは難しいんです。前からいる読者が「こんなのはSFじゃない」みたいな批判をしてくる。そういったマニアの批判が強いと、書くほうが書けなくなっちゃいますよね。部数も下がって、マーケットも縮小して、新しい書き手も生まれなくなる…そうこうしているうちに、時代はSF小説よりも、ライトな小説を好むようになっていきました。そのラノベ自体がいま、スマホの小説などに取って代わられようとしていますけれどね。
入山 なるほど。
木谷 プラモデルにも同じことが言えると思うんです。今ほど娯楽がない時代には、時間がたっぷりあった。その時代だから、「10時間かけて作りました」というようなプラモデルが受け入れられたのです。でも、いまの人たちにはそういった商品は受けないと思います。例えば、30分しか作るのに時間をかけていないのに「すごいものを作った!」という満足感はある、そう思えるプラモデルを発売しなきゃダメだと思うんです。
けれどもマニアの人たちの声を聞いていると、そんな商品は作れない。「こうじゃないとプラモじゃない」といったこだわりが強いんです。「プラモデルの色は自分で塗るものだ」みたいな声を聞いているうちに、いつのまにか市場自体が消えてしまいます。
入山 面白いですね、マニアは原理主義みたいなものだということですね。
木谷 そう、原理主義なんですよ。時代に合わせて常識は少しずつズレていくのだけれど、マニアの人たちは最初の常識にこだわっちゃうんですよね。マニアだけで巨大なマーケットがあれば、問題ないかもしれません。けれども、プロレスの場合は、マニアの人たちを見ているだけでは、市場が縮小する一方だったんです。
~~~~~~~~~~~~~~
プロレスと能楽は、全く違いますし、比較のしようもありません。
全く違うということを前提にしても、参考に出来ることって、あるのではないか?と私は感じました。
一番下段に、木谷氏のインタビュー全文がありますので、興味のある方は読んでみて下さい。
新日本プロレスの成功に学ぶことが、能楽にも、あるように思います。
ここからは、タブーを承知で書きます。
能楽(能・狂言の総称)もこのままでは、まずい。
特に、まずいのは能の方です。
能楽は、国や地方自治体から個別に決まった助成金や交付金がある訳ではありません。
もの凄いお金持ちのパトロンが、ポーンとお金を出して下さっている訳でもありません。
そして、能楽ファン、能楽愛好家(能楽堂に足を運んでもらう観客・趣味で舞や謡やお囃子を習う方)の減少に、歯止めが掛かりません。
かなり、高齢化も進んでいます。
そして、大きな興行会社がついている訳ではありません。
能楽は、10年先、20年先、どうなっているのか?
?
能楽で、誰も食えなくなって、『能楽師総兼業化、アマチュア化』していくのではないか?
私の同世代、それ以下の後輩の能楽師、みんな、流派を超えて、考えていること、感じていることは同じです。不安は一緒です。
一体、どうなってしまうんだろう。
このままでは、能楽が滅んでしまう。
それで、そうならないように、自分達で能楽が滅んでしまわないように、同世代以下の能楽師はみんな、大なり小なり、様々な色々な新しい工夫・開拓・挑戦をしながら、頑張っています。
私も、その一人です。
私は、現状、二つのことが言えると思います。
1つは、能楽の素晴らしさ・能楽にしかないアイデンティティが、そのまま能楽の難しさ・疎遠化に繋がっている(特に能の方は)、という矛盾。
これは、色々言いようがあるのですが。
(戦後、教育の現場で、欧米化ばかりで能楽をはじめ日本の文化を教え、日本人の感性を育ててこなかった大きなツケが出てきたのが、根本原因!!!これは別の機会に)
能楽でなくてはならないもの、能楽だけしか伝えていないもの、厳然と、脈々と、伝えてきたもの。
それは、どの他の伝統芸能を見渡しても、能楽にしかない!と断言出来ます。
だから、能楽は、ブレてはいけない。
だから、能楽は、守らなくてはいけない。
しかしながら、助成金も援助金もない、愛好家は減っている。舞台数は確実に減少の一途を辿っている。
観客からは、能楽は難しい、分からない(特に能は)と敬遠される。
これは、私の仮説ですが、今、能楽師、能楽業界、能楽ファン全体で、極端な言い方をすれば、考え方の二極化が起きていると思うのです。
『室町・戦国時代型能楽』か、『江戸時代型能楽』か。
微妙なニュアンスは違うかもしれませんが、もっと判りやすくいうと、『革新』と『保守』。
このどちらを、目指すのか?
世阿弥の室町時代そして戦国時代は、能楽はもっと自由であった、という考え方。
世阿弥の前後の時代の能楽は、古典ではなく、前衛であった訳ですね。
そして、能楽が幕府の式楽となり、世襲制度の中で厳然と粛々と伝来していく、という江戸時代の能楽の考え方。
ここで、現在に繋がる能楽が熟成された。
能の、他にはないアイデンティティは、ここで熟成された、とも言える訳です。
クリエイトというより、繋ぐということに重点が置かれた。しかしこれは、生活は保証されていた、という前提がありました。
お前は調子いいこと言うな!と言われるかもしれませんが、私は、その二つの間を、目指したいです!
世界へ出てみて、やはり、能にしかないアイデンティティは、かけがえのないものだと再確認しました。
家元を頂点とした、能の伝統は、守らなくてはいけない。
しかしそれだけでは、確実に、何かが足りないのです。
話を戻しますと、前出の木谷氏のいう、「マニアが業界を潰す」、ことだけはあってはならないなと。
木谷氏のインタビュー中の「SF小説」と「ライトな小説」というところを、そのまま、「能楽」と「歌舞伎」と当てはめて読んでみて下さい。
もちろん、能楽には全ては当てはまりません。
考え方は異なっても、取敢えずは足を引っ張り合うことはせずに、業界全体が同じ方向を向いて頑張っていくことが、必須だと思うのです。
そのためには、既存の伝統あるグループ・流派のそれぞれのアイデンティティはきちんと保ちつつ、それとは別の大きな枠組みというか、流れというか、結束が必要ではないかと思うのです。
全体の大きな団結といいますか。
その可能性を感じたのは、私も委員をさせて頂いています、東日本大震災 復興支援の会・息吹の会 の時です。
能楽業界全体で、流派を超えて、こんなにも一致団結して、おおきなうねりが作れるのだ、という感触でした。
そして、もう1つは、ブレーンの存在。
プロデューサー、ともいえるでしょうか。
能楽師だけでは、どうしても、考えることに限界があります。。。
そこに知恵・アイデアを貸して下さる、外部の方々がいてくれるといいのになあと、思うのです。
そんな方、いらっしゃいませんか?(笑)
この考えには、能楽業界からも反対する声もあるでしょう。能を破壊することだと。
私は、やりようだと思うのです。
例えば、能楽堂に足を運んでもらう為の、能楽師が思い付かないアイデアっだってあると思うのです。
能は守らなくてはいけない。
だか、能を滅ぼしてもいけない。
この、難しい二つの課題を突きつけられているのが、今、現代の能楽だと思います。
私が、この骨折の療養中に、考えていたことを、1つ御披露申し上げました(笑)。
新日本プロレスオーナー 木谷氏のインタビュー
ここでも度々書いてますが、私は大のプロレスファンです。
子供の頃から、今でも、よく観ています。
私の子供の頃の、馬場・猪木、タイガーマスク、マスカラスの時代から、鶴田・天龍、藤波・長州、そして、闘魂三銃士、全日四天王へ。
時代が変わり、K1、PRIDEの総合格闘技が全盛の時に、プロレスは衰退した。
会場に行っても、空いているな~という印象でした。
試合も、イマイチ、でした。
それから、ちょくちょく、チェックはしていたものの、試合は久しく観に行っていませんでした。
実は、この夏に(もちろん、骨折の全然前の話です)、久し振りに、プロレスを観に行ってきました。
今、プロレス業界最大手の、新日本プロレス です。
今、私が一番好きなレスラー、「スイーツ真壁」こと、 真壁刀義 選手がいる団体、というと判りやすいかもしれません。
久し振りの新日本プロレスの観戦。
満員の観客で、物凄い盛り上がり!
一昔の新日本プロレスとは、すっかり様変わりしていました。
もちろん、物凄い、レスラーの頑張り!!
命と人生をかけて、ぶつかっていて、本当に感動しました!(私がその後の舞台で骨折となったのも、これを観て燃えてしまったからか?苦笑)
今、新日本プロレスは、どの会場も大盛り上がりで満員で、業績は右肩上がり!なのです。
その、現場のレスラーの身体を張った頑張りと共に、よく言われているのが、親会社の戦略。
新日本プロレスオーナー、木谷氏のインタビューは、とても面白いものでした。
(添付の対談からの引用です)
~~~~~~
木谷 3年ぐらい前だと思うのですが、「すべてのジャンルはマニアが潰す」って言ったんですよ。いまだにツイッターでリツイートされていて。
入山 インパクトがある言葉ですよね。
木谷 この言葉は、プロレス以外にも色々なところで引用されているようです。例えばSF小説とか、プラモデル、あとラジコンとかいった分野です。確かに僕の目から見ると、これらの分野もマニアのせいで衰退したジャンルだと思うんです。
入山 面白いですね。SF小説がそうなんですか。
木谷 先駆者がいるジャンルに、後から入って市場を拡大するのは難しいんです。前からいる読者が「こんなのはSFじゃない」みたいな批判をしてくる。そういったマニアの批判が強いと、書くほうが書けなくなっちゃいますよね。部数も下がって、マーケットも縮小して、新しい書き手も生まれなくなる…そうこうしているうちに、時代はSF小説よりも、ライトな小説を好むようになっていきました。そのラノベ自体がいま、スマホの小説などに取って代わられようとしていますけれどね。
入山 なるほど。
木谷 プラモデルにも同じことが言えると思うんです。今ほど娯楽がない時代には、時間がたっぷりあった。その時代だから、「10時間かけて作りました」というようなプラモデルが受け入れられたのです。でも、いまの人たちにはそういった商品は受けないと思います。例えば、30分しか作るのに時間をかけていないのに「すごいものを作った!」という満足感はある、そう思えるプラモデルを発売しなきゃダメだと思うんです。
けれどもマニアの人たちの声を聞いていると、そんな商品は作れない。「こうじゃないとプラモじゃない」といったこだわりが強いんです。「プラモデルの色は自分で塗るものだ」みたいな声を聞いているうちに、いつのまにか市場自体が消えてしまいます。
入山 面白いですね、マニアは原理主義みたいなものだということですね。
木谷 そう、原理主義なんですよ。時代に合わせて常識は少しずつズレていくのだけれど、マニアの人たちは最初の常識にこだわっちゃうんですよね。マニアだけで巨大なマーケットがあれば、問題ないかもしれません。けれども、プロレスの場合は、マニアの人たちを見ているだけでは、市場が縮小する一方だったんです。
~~~~~~~~~~~~~~
プロレスと能楽は、全く違いますし、比較のしようもありません。
全く違うということを前提にしても、参考に出来ることって、あるのではないか?と私は感じました。
一番下段に、木谷氏のインタビュー全文がありますので、興味のある方は読んでみて下さい。
新日本プロレスの成功に学ぶことが、能楽にも、あるように思います。
ここからは、タブーを承知で書きます。
能楽(能・狂言の総称)もこのままでは、まずい。
特に、まずいのは能の方です。
能楽は、国や地方自治体から個別に決まった助成金や交付金がある訳ではありません。
もの凄いお金持ちのパトロンが、ポーンとお金を出して下さっている訳でもありません。
そして、能楽ファン、能楽愛好家(能楽堂に足を運んでもらう観客・趣味で舞や謡やお囃子を習う方)の減少に、歯止めが掛かりません。
かなり、高齢化も進んでいます。
そして、大きな興行会社がついている訳ではありません。
能楽は、10年先、20年先、どうなっているのか?
?
能楽で、誰も食えなくなって、『能楽師総兼業化、アマチュア化』していくのではないか?
私の同世代、それ以下の後輩の能楽師、みんな、流派を超えて、考えていること、感じていることは同じです。不安は一緒です。
一体、どうなってしまうんだろう。
このままでは、能楽が滅んでしまう。
それで、そうならないように、自分達で能楽が滅んでしまわないように、同世代以下の能楽師はみんな、大なり小なり、様々な色々な新しい工夫・開拓・挑戦をしながら、頑張っています。
私も、その一人です。
私は、現状、二つのことが言えると思います。
1つは、能楽の素晴らしさ・能楽にしかないアイデンティティが、そのまま能楽の難しさ・疎遠化に繋がっている(特に能の方は)、という矛盾。
これは、色々言いようがあるのですが。
(戦後、教育の現場で、欧米化ばかりで能楽をはじめ日本の文化を教え、日本人の感性を育ててこなかった大きなツケが出てきたのが、根本原因!!!これは別の機会に)
能楽でなくてはならないもの、能楽だけしか伝えていないもの、厳然と、脈々と、伝えてきたもの。
それは、どの他の伝統芸能を見渡しても、能楽にしかない!と断言出来ます。
だから、能楽は、ブレてはいけない。
だから、能楽は、守らなくてはいけない。
しかしながら、助成金も援助金もない、愛好家は減っている。舞台数は確実に減少の一途を辿っている。
観客からは、能楽は難しい、分からない(特に能は)と敬遠される。
これは、私の仮説ですが、今、能楽師、能楽業界、能楽ファン全体で、極端な言い方をすれば、考え方の二極化が起きていると思うのです。
『室町・戦国時代型能楽』か、『江戸時代型能楽』か。
微妙なニュアンスは違うかもしれませんが、もっと判りやすくいうと、『革新』と『保守』。
このどちらを、目指すのか?
世阿弥の室町時代そして戦国時代は、能楽はもっと自由であった、という考え方。
世阿弥の前後の時代の能楽は、古典ではなく、前衛であった訳ですね。
そして、能楽が幕府の式楽となり、世襲制度の中で厳然と粛々と伝来していく、という江戸時代の能楽の考え方。
ここで、現在に繋がる能楽が熟成された。
能の、他にはないアイデンティティは、ここで熟成された、とも言える訳です。
クリエイトというより、繋ぐということに重点が置かれた。しかしこれは、生活は保証されていた、という前提がありました。
お前は調子いいこと言うな!と言われるかもしれませんが、私は、その二つの間を、目指したいです!
世界へ出てみて、やはり、能にしかないアイデンティティは、かけがえのないものだと再確認しました。
家元を頂点とした、能の伝統は、守らなくてはいけない。
しかしそれだけでは、確実に、何かが足りないのです。
話を戻しますと、前出の木谷氏のいう、「マニアが業界を潰す」、ことだけはあってはならないなと。
木谷氏のインタビュー中の「SF小説」と「ライトな小説」というところを、そのまま、「能楽」と「歌舞伎」と当てはめて読んでみて下さい。
もちろん、能楽には全ては当てはまりません。
考え方は異なっても、取敢えずは足を引っ張り合うことはせずに、業界全体が同じ方向を向いて頑張っていくことが、必須だと思うのです。
そのためには、既存の伝統あるグループ・流派のそれぞれのアイデンティティはきちんと保ちつつ、それとは別の大きな枠組みというか、流れというか、結束が必要ではないかと思うのです。
全体の大きな団結といいますか。
その可能性を感じたのは、私も委員をさせて頂いています、東日本大震災 復興支援の会・息吹の会 の時です。
能楽業界全体で、流派を超えて、こんなにも一致団結して、おおきなうねりが作れるのだ、という感触でした。
そして、もう1つは、ブレーンの存在。
プロデューサー、ともいえるでしょうか。
能楽師だけでは、どうしても、考えることに限界があります。。。
そこに知恵・アイデアを貸して下さる、外部の方々がいてくれるといいのになあと、思うのです。
そんな方、いらっしゃいませんか?(笑)
この考えには、能楽業界からも反対する声もあるでしょう。能を破壊することだと。
私は、やりようだと思うのです。
例えば、能楽堂に足を運んでもらう為の、能楽師が思い付かないアイデアっだってあると思うのです。
能は守らなくてはいけない。
だか、能を滅ぼしてもいけない。
この、難しい二つの課題を突きつけられているのが、今、現代の能楽だと思います。
私が、この骨折の療養中に、考えていたことを、1つ御披露申し上げました(笑)。
新日本プロレスオーナー 木谷氏のインタビュー