災害の映像を見て、現地に行って、土地を見て、歩いて、逃げることがどれほど難しいかという事実を体感することになりました。この1か月、何回か重症心身障害児の子のケアをお手伝いしたりと普通の人よりも逃げることが難しい子供たちを立体的に感じられるようになっていて、自分の意志を伝えることもできず、一人で歩くこともできない子供たちがどれほどいただろう、と想像して、心が痛くなりました。

 

避難後の生活も、障害を持っていなくても難しい暮らしを強いられる人は多かったと思います。災害の時は小学3年生で、あまり多くの記憶はありません。丁度ワックスがけのために机と椅子を片付けていて、隠れる場所もないなか、教室でみんなで固まってただ混乱していたことだけ。山形県は日本海側であったためにあまり大きな被害を受けることもなく、テレビで見る災害のニュースに対しても現実味を感じられていなかったものでした。

 

今も道路にはここまで津波が来ました、という看板がある場所があり、被災したあとのまま残された建物があります。建物を残しておこう、という意見には実は色々な意味が含まれているのかもしれない、と思いました。見れば辛くなるのは誰しも共通の想いとして持っていて、それでもなおこのような災害がこれ以降起きないように、亡くなった方を忘れないように、そういった未来への想いがあるからこそ、あの場所にまだ残っているんだと思います。

 

生を意識しようと思えば、それだけ死を意識することにつながるんですね……。

 

神社で工藤さんに聞かせていただいた話は私が簡単に文章にできるような重さではありませんでした。書くと自分が思っている以上に軽くなってしまう気がしますが、思ったことを書くとするならば、願いを受け止められる場所というのはあるだけで人を助けてくれるんだなということです。もしかしたら先ほどの被災した建物の跡も同じことを言えるのかもしれませんが、災害の跡にお神酒とタオルをもって参拝しにきてくださった方がいるという話や、話し合う場所として社務所を提供することになったという話、神主としての町民をつなげる役割についての話など、神社の在り方を強く実感することになったということをおっしゃっていて、何か一つこうして支えを提供してくれる場所があるだけで、復興への力が湧いてくるのだと思いました。

遠い未来のことまでじゃなくて、近い未来、どう生きていくかを必死に考えていただけかもしれませんが、それでもここまで前に進んでこれたこと、あきらめなかった人がいたこと、それがとてもすごいと思いました。

 

そうやって残したいと思って伝えていく人がいるというのは当たり前になって他人事みたいになって、気が付けないことも世の中にはもっとたくさんあるかもしれないと思わされました。知らないまま消えていくものがあるとするのならばどうにかできないのか、という点ですね。

 

切子についても、あったことを形に残すための創作切子と、ないものをあるようにするための伝承切子と目的は違えど人の気持ちを受け継いでいるという点で共通するものがあるというお話を聞きました。

風鈴のような、目に見えないはずの風が可視化される、というものに趣を感じる日本人の心が美しいと感じます。

また、創作切子のような文字にしないことであれば例えば障害を持つ方でもこちらがすくいそこねた本人の気持ちがそこに表現される可能性があるのではないか、ということも考えました。

 

障害を持っていて、喋ることができない人であれば、介助する際にはいろんな言葉をかけてみて、笑ったら肯定と解釈したり、表情やしぐさで読み取ったことにしています。ただそれが正しいかどうかは本人以外にはわかることではありません。確かめられるものではないことが多いです。ただ、そういった気持ちの面を言葉以外で表現できるのが絵や音楽などの芸術だと思うので、そういった方の想いも、切子のような形で残せることができればいいな、と思います。