例年なら、春には一番町で学生の新歓コンパが行なわれ、泥酔した新入生が道路に寝転んでいるのだが、今年はそういう光景をとんと見なかった。
国分町で奇声を発する酔っ払いもいないし、自分も3月以来、国分町に出かけていない。
街全体が喪に服しているようである。
仙台には、石巻とか志津川とか気仙沼とか、沿岸部出身の人が多く住んでいる。
震災で親、兄弟、親戚を亡くした人も多い。
人的被害はなくても、実家が浸水し、毎週片付けに通っている人もいる。
地震はどうでした?
被害はなかったですか?
と簡単には聞けない雰囲気が漂っている。
事情を知らずに、今晩軽く行きますか、と誘ったら顰蹙なので、自然と自粛モードになってしまうのだ。
河北新報には、毎日葬儀案内が載る。
複数の家族の合同葬で、亡くなった日はいずれも3月11日。
住所が沿岸部であれば、読んだ人は事情を理解する。
故人の遺体は見つかったのだろうか。
見つかっていれば、むしろ幸運である。
「婿は5日目に見つかったのに、娘(の遺体)がまだ上がらねのよ」というおばあさんにも会った。
前に進むため、見つからないまま葬儀を行なう場合もあるだろう。
石巻・大川小学校の行方不明児童の親は、今でも手掛かりを求めて付近を探し回っているという。
地面を掘るため、重機の免許を取得した母親もいる。
腕一本、指一本でも見つけたいのだ。
子を亡くした親にとっては、葬儀をするなど、まだ思いもよらない。
山形新聞に、「仙台はまるで活気のない街になった」と書かれたのが気になっているが、仙台はそういうわけで、まだ服喪中である。
いまだに活気が戻らないのは仕方がないことで、喪が明けたら、また元気になります。
待っていて下さい。