旧山寺ホテル
旧山寺ホテル。後ろの山は立石寺。山寺は霊山であるが故にかつて旅籠はなく、坊が存在していた。しかし、宝暦年間(1751年)になって立石寺により旅籠屋営業が許された。当時は周辺に24軒の宿屋があったと言われている。 旧山寺ホテルの前身は現在の川原町(立石寺門前町)にあった当時からの旅籠「中島屋」。しかし大正2年8月、立谷川が氾濫し、建物は流されてしまった。中島屋の面影は、ホテル正面に掲げられた木製看板裏面の「中島屋治良兵衛」という彫文字に見ることができる。 建物流失後、対面石の対岸にある現在の場所に移転再建された。かつてこの建物は、医院だったとも言われている。明治35年当時の所有者、今野有石氏はこの建物をすでに「山寺ホテル」と称していたため、中島屋七代目武田治良兵衛氏は、屋号を「山寺ホテル」として引き継ぎいだ。(この建物は、現在の正面左手の母屋に当たるが、現在は所有者居住部であるため立ち入ることはできない。) その後、各方面から支援を得て、二階建ての旅館及び庭園を整備し、大正5年、高等旅館として営業を再開した。当時は立石寺に面した庭園側が正面玄関であり、人力車で賑わう様子が写真に残されている。 昭和期になると、北側庭園は山形・天童方面へのバス発着場となり、さらに賑わう様子が館内に写真展示されている。 その後山寺は山形と汽車で行き来ができる時代となる。仙山線は仙台と山形を結ぶ国鉄線で、昭和8年に山形ー山寺間が開通した。この当時山寺ホテルの玄関は、まだ庭園側にあったが、4年後の昭和12年には仙台ー山寺間が開通し、仙台―山形間全線開通となった。これにより、山寺は観光地としての隆盛期を迎えた。 山寺ホテルは全線開通前の昭和11年、新館(現在の正面右手)を増築し、山寺駅と相対した現在の東側を表玄関とした。以前の表玄関は裏玄関となり、現在も庭に面し残っている。 新館は当時モダンな造りになっており、玄関すぐ右手には洋風の食堂があった。外に面したショウウインドーにその面影を見ることができる。また、新館の屋根は当時最先端であったセメント瓦で葺かれている。さらに電話が引かれ、山寺ホテルは「山寺三番」として電話が設置され、当時の電話室が残されている。今はホテル営業はやっておらず、ギャラリーになっている。2階の大広間に、結城泰作氏の山形市の建物を描いた原画が展示されている。教育会館山形大映劇場千歳館北側の窓から立石寺が見える。鉄道の駅ができるまでは、こちら側(北側)が玄関だったそうだ。駅ができると反対側(南側)に玄関を作った。参道の「ふもとや」。何十年も前からある店。建物を新しくした。そばだけでなく、丼もカレーもある。60年前の「ふもとや」↓中学卒業後の春休みに級友と自転車で出かけた。