気が強く

 

頼りになる

 

パートさんがいる。

 

 

 

 

これから

 

店で発売になる

 

サラダの落とし込みをしていたところ

 

ふいに

 

ドレッシングの話題になった。

 

 

 

”今、オリジナルのドレッシングを開発中ですが

 

 間に合わないので

 

 キューピーのドレッシングでスタートします。”

 

 

 

す。る。と。

 

その女性スタッフは

 

ニッコリ笑顔で

 

”わたし、キューピーの社員だったんです。むかし。” と、教えてくれた。

 

 

 

なんだか

 

とっても

 

うれしくなった。

 

 

 

なぜなら

 

わたしは

 

キューピーの創業者

 

中島董一郎(なかしま とういちろう)さんの大ファンだから。

 

 

中島さんの座右の銘

 

”守愚”は、

 

わたしの座右の銘でもある。

 

 

 

 

スタッフに

 

キューピーの創業者

 

中島董一郎さんは

 

愛知県の三河(西尾市)で生まれたんだと自慢をすると

 

 

 

その女性スタッフは

 

もともと

 

九州、福岡から

 

キューピーに就職するために

 

愛知県に来たと

 

教えてくれた。

 

 

そして

 

 

愛知県に

 

キューピーの工場はなくなってしまって

 

彼女も

 

工場が無くなるタイミングで

 

退職したと教えてくれた。

 

 

 

 

 

。。。。。。。。。。。。。。。

 

 

 

明治16年8月22日

 

愛知県西尾市に

 

一人の赤ん坊が生まれる。

 

 

名前は

 

中島董一郎(なかしま とういちろう)といった。

 

 

東日本と違って

 

ここ

 

愛知県では

 

中島という苗字は、

 

にごらず、

 

”ナカシマ” と呼ぶことが多い。

 

 

 

 

中島董一郎が生まれたとき

 

董一郎の父親は

 

町一番の腕の良い医者だったが

 

親戚の保証人になってしまい

 

膨大な借金を押し付けられ

 

家を手放し

 

町から出てゆくことになってしまった。

 

 

そして

 

不幸は続き

 

10年後

 

今度は

 

董一郎の最愛の母

 

キンが

 

29歳の若さで他界してしまう。

 

 

その後

 

董一郎は継母との折り合いが悪く、

 

生活も不安定となり

 

第一志望の

 

一高受験に2度失敗

 

3年目にして

 

一高進学を断念する。

 

そして

 

水産講習所へ行くことにした。

 

 

 

董一郎は、

 

大好きな水泳やボート漕ぎに熱中し

 

卒業すると

 

目的もなく

 

なんとなく

 

父に勧められ

 

京成電車創立事務所に入社した。

 

 

しかし

 

仕事に馴染めず

 

わずか1年で退職。

 

その後は

 

先輩の紹介で缶詰問屋に再就職するのだが、

 

そこでも長続きすることはなかった。

 

 

転職を

 

繰り返すなか

 

董一郎は

 

しだいに独立を考えるようになっていた。

 

そして

 

そのことを

 

水産講習所時代の先輩、高橋達之助に相談する。

 

 

余談だが、

 

この高橋達之助という人物は、

 

のちに

 

東洋製缶の社長を経て、

 

衆議院議員、

 

そして通産大臣となる

 

立志伝中の人物だった。

 

 

もし

 

董一郎が

 

大学受験に成功し

 

第一希望の

 

一高に入学していたら。。。

 

水産講習所へ入学することもなく

 

高橋達之助と出会うことはなかった。

 

 

そうしたら

 

将来

 

彼が作ることになる

 

アヲハタジャムも

 

キューピーマヨネーズも、

 

存在しなかった。

 

 

そう考えると

 

人生は

 

すばらしい。

 

 

 

 

話をもどして

 

董一郎が

 

高橋達之助に独立の相談に行くと、

 

 

高橋は

 

董一郎の、

 

目的(意義)もなく、

 

ただ独立のための独立。という考え方に大反対する。

 

 

そして

 

”まずは、海の向こうで勉強をしてきなさい。

 

そして経験を積んで

 

目的を見つけてから

 

独立したほうがいい。” と、

 

アドバイスをする。

 

 

すると

 

董一郎

 

”そうしたいのは。。。

 

 山々ですが。。。

 

 先立つもの(お金)が。。。

 

 ありません。”

 

 

 

高橋達之助

 

”農商務省の海外実業練習生になれば3年間、国費で海外実習できる。

 

 ただし支給されるのは、往復の旅費と生活費の3分の2で、

 

 残りの3分の1は、稼がなければならないけどね。”

 

 

 

董一郎の目が

 

キラキラ輝く

 

 

さっそく

 

董一郎は、

 

海外実業練習生になるため

 

必死に勉強し

 

見事

 

合格する。

 

 

 

数年前

 

目的を見つけられず

 

イヤイヤ勉強をして

 

大学受験に

 

ことごとく失敗していた頃とは、

 

まるで

 

別人になっていた。

 

 

大正元年11月

 

董一郎は

 

九州の門司港(もじこう)から船に乗って

 

イギリスへ向かう。

 

 

デッキで受ける風は

 

身を切るような冷たさだったが

 

心は火照って(ほてって)いた。

 

 

 

 

日本に昔からある

 

調味料に

 

醤油、味噌、お酢などがあるが

 

この四半世紀

 

大きく売り上げを伸ばした

 

調味料は

 

一つしかない。

 

 

そう

 

マヨネーズ。

 

 

 

日本の伝統的な調味料のひとつ

 

醤油などは

 

販売量が

 

半分以下と激減している。

 

 

 

 

将来性のある唯一の調味料

 

マヨネーズに、

 

昭和30年代、

 

マルハ、

 

ニッスイといった大手水産会社や

 

食品会社が続々と

 

マーケットに参入してきた。
 

 

これに対し

 

キユーピーは果敢に値下げで

 

対抗してゆく。

 

大量生産によるコストダウンで

 

品質を落とすことなく

 

値下げに次ぐ値下げを断行

 

昭和36年3 月までに

 

キューピーマヨネーズは、

 

じつに

 

17 回の値下げを行っている。

 

 

 

中島董一郎は

 

常々

 

 

“利益は結果であって、目的ではない。”と語り、

 

 

実践していた。

 

 

そんな、

 

キユーピーの覚悟の前に、

 

さすがの大手水産会社も悲鳴を上げ、

 

スーパーの棚から

 

キューピー以外のマヨネーズは

 

姿を消していった。

 

 

そして

 

数年後

 

昭和43年

 

 

満を持して

 

食品業界の巨人が動き出す。

 

 

さきの

 

大手水産会社とは

 

比べようもないほどの

 

巨大企業から

 

一通の挑戦状が

 

キューピーのもとへ届く。

 

 

その巨大企業とは、

 

味の素からのものだった。

 

 

現在でも

 

味の素と、キューピーは、

 

共に大会社だが、

 

その企業規模は、

 

大人と子供だ。

 

 

味の素は、

 

さきに撤退を余儀なくされた

 

大手水産会社とキューピーとの

 

マヨネーズ戦争を徹底的に分析をしていた。

 

 

そして、

 

水産会社の敗因を分析

 

調査した結果

 

味の素は

 

キユーピーとは、

 

まったく異なるタイプのマヨネーズを開発することにした。

 

 

卵黄だけを使い

 

コクのあるキューピーマヨネーズに対して、

 

味の素のマヨネーズは、

 

とれて3日以内の新鮮たまごの卵白、水あめなどを使う全卵タイプのあっさりタイプで、

 

酸味の少ないマヨネーズを開発したのだった。

 

味の素は、

 

キューピーに勝つために

 

明確な味の差別化を図った。

 

 

ある日

 

董一郎のもとに

 

取引先の社長が訪ねてきた。

 

 

取引先の社長は、

 

開口一番

 

”中島さん、今日は味の素さんの使いで参りました。”

 

 

 

中島董一郎

 

”どんなご用件でしょうか。”

 

 

 

取引先の社長

 

”味の素さんは、キューピーさんと親戚づきあいがしたいそうです。”

 

 

 

中島董一郎

 

”親戚づきあいとは、株を渡しなさいというコトですか。”

 

 

 

取引先の社長

 

”はい、味の素さんは、

 

 ぜひキューピーさんと親戚づきあいがやれるのなら、

 

 強いて、

 

 味の素は

 

 マヨネーズ業界には

 

 参入しなくてもいいと話しております。”

 

 


中島董一郎

 

”わかりました。慎重に検討したうえで、ご返事いたします。”

 

 

 

検討するまでもなかった。

 

日本ではじめて、

 

マヨネーズを世に送り出した董一郎にとって、

 

戦わずして味の素の軍門に降るなどということは、

 

誇りが許さなかった。

 

 

 

董一郎

 

”鶏口(けいこう)となるとも、

 

 牛後(ぎゅうご)となるなかれだ!”

 

 

*鶏口となるも牛後となるなかれとは。。。

 

 大きな集団の中で尻にいて使われるよりも、

 

 小さな集団であっても長となることのほうがよい。

 

 

 

中島董一郎は、

 

味の素からの申し入れを

 

きっぱり

 

断った。

 

 


 

味の素と

 

キューピー。

 

 

両雄の激しいマヨネーズ戦争がはじまる。

 

結局、

 

両雄の戦いは

 

マヨネーズのマーケットの活性化につながり

 

マーケット全体の規模拡大につながることとなった。

 

 

そして、

 

現在の販売シェアは、

 

だいたい

 

キューピー7割りに対し、

 

味の素3割りの比率で推移している。

 

 

結局、

 

食品業界の巨人、

 

味の素のマヨネーズ参入は、

 

キューピーのシェアを脅かすには至らなかった。

 

 

マヨネーズを

 

日本の調味料として育て上げた中島董一郎は、

 

晩年

 

こんな話をしている。

 

 

 

”じつは、

 

 キユーピーの一番のライバルは

 

 味の素さんではないんです。

 

 家庭の主婦さんなんです。
 

 マヨネーズの主な原料は油と卵と酢と塩です。

 

 作ろうと思えば

 

 だれでも

 

 簡単に

 

 作ることが出来ます。

 

 だから

 

 キューピーのマヨネーズは、

 

 手作りマヨネーズよりも、
 

 いかに

 

 おいしく、

 

 いかに

 

 安全で

 

 いかに

 

 便利か。

 

 そして

 

 値段も安いこと。

 

 これらの

 

 条件が一つでも欠ければ、

 

 キユーピーマヨネーズの存在はなくなるでしょう。” 

 

 

 大切なのは創意工夫です。

 

 もし、

 

 公平でない結果が出たとすれば、

 

 それは、

 

 創意工夫に欠けていたからではないかと

 

 わたしは

 

 おもうのです。