風の人

 

そう

 

呼ばれていた

 

社長さんがいた。


 

 

”島野敬三”


 

 

ほとんどの

 

日本人は、

 

この名前を

 

知らない。


 

 

 

じつは、

 

島野敬三さんのつくるモノは、


 

世界シェア80パーセント以上。



 

日本では

 

無名だが、


 

世界では

 

知られた名前だ。


 

 

”株式会社シマノを世界へと導いた男。 ”


 


 

 

会社名で言えば


 

あんがいご存知の方も多いはず。



そう

 

釣具や

 

自転車の部品メーカーの会社

 

株式会社シマノの

 

社長さんだった方。



 

もともと

 

シマノは

 

大阪の小さな町工場からスタートした。


 

今でこそ、

 

スポーツ自転車の世界市場80%以上

 

マウンテンバイクの世界市場80%を有する世界企業。

 

そして、

 

毎年、フランスで開催される

 

世界最大の自転車レース

 

ツール・ド・フランスでも

 

シマノの製品は出場選手から

 

愛されている。

 

 

2016年の大会では、

 

参加22チーム中、

 

17チームが、

 

シマノの部品を使った自転車で

 

競技にのぞんでいる。

 

 

 

驚くべきことに、

 

この会社、

 

シマノは、

 

全売上の90%を海外で稼いでいる。

 

 

株式の時価総額は、

 

国産ロケットをつくる三菱重工業よりも、

 

小売業の王者、イオンより

 

上を行く。

 

 

有利子負債額を現預金が

 

上回る、

 

無借金経営のウルトラ優良企業。 

 
 

 

 

 

シマノが

 

飛躍のきっかけを

 

つかんだ出来事がある。


 

それは、


 

マウンテンバイク♪


 

 

 

シマノが

 

マウンテンバイクを開発した当初、

 

 

日本では、


わざわざ

 

山に行って

 

自転車をこぐ人はいなかった。(笑)


 

 

一人も

 

いなかった。


 

 

 

街乗り用の

 

自転車がすべてだった。

 

 

島野敬三のつくった

 

マウンテンバイクは

 

まったく

 

売れなかった。

 

 

 

 

島野敬三は、


 

世の中のニーズの


 

少し先を

 

行ってしまった。

 

 

 

 

 

ならばと、

 

島野敬三は


 

目先を変えて、


 

日本を飛び出し、


 

アメリカへ

 


さっそく

 

マウンテンバイクのレースを視察しに出かけていった。



朝、


 

国際便で到着したばかりだというのに、

 


島野社長は、

 

スーツ姿で

 

マウンテンバイクのレースを視察しに出ていった。


 

まさに、

 

風の人♪




 

選手たちが

 

生死をかけながら、

 

マウンテンバイクで

 

大空を飛んでいる姿を見て。。。




 

島野敬三は、


 

疑問を感じた。



 

レースが終わると


 

さっそく

 

島野敬三は


 

スーツ姿のまま、

 

試合の終わったレース会場を、


 

マウンテンバイクを借りて乗ってみた。


 

 

凸凹コースを

 

何度も

 

何度も

 

転びながら、

 

どうにか

 

戻って来ることができた。

 

スーツは泥だらけだった。

 

 

みずからレースを体験した

 

島野敬三は、


 

泥だらけになりながらも

 

 

ニヤリ♪

 

 

 

最高の笑顔があった。

 

 

 

同行していた

 

社員たちは、

 

 

?????



 

とうとう。。。

 

社長は。。。

 

転んで、

 

頭を打って

 

おかしくなったと思った。




 

島野敬三は、

 

すぐに、


 

既存のマウンテンバイクの欠点を見つけ出していたのだった。


 

 

 

俺なら(島野敬三)。。。

 


もっと選手の安全を考えた上で、


 

もっと速く走れる

 

マウンテンバイクを作ることができる。


 

 

そして、

 

その後、

 

すぐに安全で高性能なマウンテンバイクを作り、

 

シマノは、

 

アメリカで信用を得ることになるのだった。

 

 

 

当時、

 

アメリカ人のもっている

 

日本製品へのイメージは、


 

” 安かろう、悪かろう ”だった。。。

 


 

1960年代

 

アメリカのフリーウエイで

 

たいてい

 

煙をだして

 

止まっている車は

 

日本車だった。


 

日本のクルマは、

 

パワー不足で

 

アメリカ西海岸の急斜面を登ることが出来なかった。



 

そんななか、


 

島野は、

 

社員を二人一組にして北米に派遣した。

 


米国の北、

 

中央、

 

南と三チームに分け、

 

 

6カ月かけて


 

アメリカ大陸の、


 

すべての自転車屋を回った♪



 

” ごめんくださ~い♪  ”


 

そこで

 

シマノの社員たちは

 

自社のパーツを自転車屋さんに見せて

 


徹底的に、

 

意見交換し、

 

問題点をあぶりだしていった。


 

そして、

 

六ヶ月後


 

それが、終わった頃には、


 

シマノには、

 

様々な貴重なノウハウが蓄積されていた。

 

 

 

島野敬三には、

 

周囲を認めさせてしまう

 

すばやい行動力と、

 

ストーカーのような

 

しつこい努力があった♪


 

また、

 

ある時、

 

シマノで

 

女性用自転車の

 

エルペダルの開発をしていた時のことだった。


 

島野敬三は、

 

みずから、

 

スカートをはき、

 

靴も26センチのハイヒールを履いて、


 

さらに、

 

がに股にならないように、


 

ひもで足をしばって実験したそうだ。



 

 


 

社長の島野が、

 

将来、世界を制することになる

 

マウンテンバイクの開発をしている最中(さなか)。

 

 

 

会社の内外からは批判が続出していた。

 

 

”山奥で、

 

 自転車に乗るような物好きは、

 

 日本には

 

 一人もいない。”
 

 

 ”邪道だ”

 

 

 ”そのうち大損するぞ”  と、大合唱だった。

 

 

 

後に

 

島野敬三は

 

こんな話を

 

残している。



 

”企業には、


 

 財務や生産管理などのように 

 

 きっちりと仕事をやらなければならない分野と、  


 目をつぶって、

 

 渡らなければならない分野とがあるんですよ。


 

 この組み合わせを考えるのが経営なんです。”



 

開発部門の考え方とは、

 

 

後者の考え方で、

 

 

いままで、


 

様々な開発手法を試みたが、

 

技術者に

 

自由に好きなモノを作らせるのが、

 

最も

 

無駄が少ないことに

 

気がついたそうだ。


 

まずは、

 

試作させ、

 

そして問題点をあぶりだし改善してゆく。という手法。




 

余談だが、


 

今も、


 

世界中の自転車レースに行くと、


 

レースの沿道で、


 

不思議な警備員らしき人物たちに出会う。

 


しかし、

 

彼らは実際、

 

レースのボランティアスタッフでも、警備員でもない。

 

全員、シマノの社員なんですね。

 


彼らは、

 

自社の自転車が、

 

レースの時に

 

選手が、どういう扱いをしているのかを

 

見るために沿道に立っているのです。

 

だから

 

彼らは、

 

熱心に

 

沿道の掃除は

 

しないそうです。
 

 

 

世界一のシェアをもつ会社とは、

 

利用者の声を聞くために

 

世界一努力をしている会社のコトであって、

 

 

 

世界一だから

 

世界一ではない。