信教の自由が緩すぎると(緩すぎも弾圧と同じ破壊である)
(最終更新2022/9/2  23:25)

 旧統一教会問題に関して、反社会性だけに着目し信教の自由に絡めて考えることに疑義を呈する意見が散見されるが、果たしてどうなのか。内心の自由は規制されない、信教の自由を規制することには極めて慎重となるのもわかるが、一方でそれは規制の緩さを利用したい自由主義(保守)の発想でもあり得る(自由主義=保守の人にとって独占支配を実現するために規制の緩さが必要なのであって、他者に自由を与えるためではない。むしろ自由を奪う。自己に甘く他者に厳しいのが自由主義の本質であり、他者にも自由を与えるかのような詐術を伴うのが自由主義である。内心の自由の尊重という大義名分は格好の材料となるであろう。かつて太平洋戦争で、アジアを欧米列強から解放する大東亜共栄圏という日本の大義名分もまさに、その詐術であり、実態は資源を独占支配し、現地の人々を支配することであった。全体主義は自由主義の一つの姿である。また、「トリクルダウン」も同様に自由主義の詐術と言える。実際には富の独占による格差拡大となった。手を変え品を変えて詐術は行われるであろう。デジタル化もその疑いがある。)。

 

 国家が政教分離のために一切宗教に関与しない潔癖さ(信教の自由の過剰な緩さでもある)は、宗教(カルト)が国家を乗っ取る状況をも許すことになり、むしろ政教分離を侵すことになるのではないか。潔癖な追求は真反対を導くものである(「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は思っているよりも激烈な現象にもなるのでは)。カルトが洗脳することは、偏見を強固に植え付けて自由意思を失わせることに等しく、信教の自由を侵害しており、そういうものをのさばらせるような「信教の自由の潔癖な緩さ」はむしろ信教の自由を阻害している。私は潔癖ではダメだと思う。危ないものをそのように扱い最低限防衛しないと民主主義は成り立たない。強制や弾圧にならない程度に規制するのが民主主義=「中庸」の姿であり、その絶妙なバランスを見つけ作り出すのが民主主義を実践するということである。例えば、山村での有害鳥獣駆除は絶滅させるのが目的ではなく、野生鳥獣と人間の「共存(自分も相手も存続)」のためであるというのがバランス感覚の事例であろう。ただし、あまりにも危険な脅威に対しては根絶が目標になるのかもしれない(人間自身が持ち込んだものならなおさら)。なお、「中庸」という境界、臨界状態は複雑ではなかろうか。複雑系の現象では、初期値鋭敏性いわゆる「バタフライ効果」がある。予測困難では試行錯誤しかない。

 

 「自分は正しい」とか「善だ」などと主張したり、そのような思考を根拠に何かを強く主張する者のうち、実際は支配を企んでいたり、支配を企む者から洗脳されてそう言っているケースはどれくらいかと言えば、遺伝的に自由主義(後述)の人がどれくらい存在するかに置き換えるとするなら、それは世界の人類のうちおそらく半分以上であることから、半分以上の確率でそうなっていそうだということになる。前回記事で書いたように、

「自由主義(保守)の性質を持つ人の残虐性は、全体主義という個人の否定を通じて、もともとは自由主義でない人の生得的普遍的モラル(憐れみや自制心)まで消失させ、集団的な残虐行為を生み、他者の自由を許さない自由主義による差別やいじめも拡大させる。」

 と私は考え、もともと遺伝的に自由主義の人は洗脳されずとも(もちろん洗脳もされやすいが)低モラルであり、洗脳はもともと自由主義でない人にも低モラルを拡大させるのだろうと思う。その自由主義の状態に当てはまることを見分ける目印を挙げれば、例えば、善か悪かなどの二元的思考があること、レッテルを貼り、誰かを悪と「決めつけ」て攻撃しようとしていること、そして、その背景にある不寛容(誰かの自由を許さないという感情)である。不寛容は、感情として現れてしまうものであり、これに二元思考、レッテル貼りが伴っていればかなり高い確率で当てはまる見分けのポイントとなり、そのような「正義」「道徳」は、いかに正論に見えても、あり方そのもの(自由主義)によって偽物となる可能性が高い。「となる」と書いたのは、いくら正論でもそのあり方(自由主義)では「正しい」とする内容自体も実現しないということである。その話を聞いている段階ではその結論がでていないように思えて騙されてしまうのである。

  例えば、本稿は信教の自由の「緩すぎ」を問題にしてるのに、信教の自由か規制かという二元思考にすり替えられると、問題は全く見えなくなり(喩えるなら、画像で解像度が粗くなり本来あるものが消失したように見えるということ)、見えないということは問題は永久に解決しなくなることを意味する。

 トランプ前大統領は明らかに自由主義で、選挙の不正をでっち上げた疑惑があり、そのような人のもとでは、今後も疑惑が疑惑を生み、誰からも公正と見なされる選挙とはならないであろう。トランプ氏支持者らはトランプ氏だけを信じて疑いを持たず、また疑う者を敵視し絶対に許さず(強烈な不寛容)、洗脳されているのと全く同じであり全体主義と同じ状態である(カルトが乗っ取っているのと全く変わらない)。洗脳は、人の不安を強く刺激し、教祖(扇動主)なしでは生きられないという強烈な依存心を生み、脳の機能によりそこから脱することができなくなるパラノイア(偏執病、妄想症)つまり精神病のような状態を引き起こす(内的要因と外的要因の両方があり、パラノイアとは言えないかもしれない)。そうなりやすい遺伝的に自由主義の人は人類の半数以上と考えられる。アメリカの白人の保守は、自分たち白人の割合が減って立場が弱まることへの恐怖を起源とする自由主義そのものである。不安や恐怖を起源に自由主義、パラノイア的状態、不寛容が生まれ全体主義となる様子が鮮明である。不寛容は社会を分断破壊し民主主義の前提を破壊する(「人々が主権をもつ」の「人々」は当然、人が集団で暮らす「共生」があり「社会」が成立した状態を指しているはずである)。自由主義が過半数の国民性なら、アメリカから民主主義が完全に失われる日も近いのかもしれない(もう、ほぼ失われていると言ってよい)。トランプ氏が再び大統領選挙で勝ったとしても、洗脳によって自己を喪失した人々を道理として主権者とは言えないとするなら、「人民主権」とはならず、それは民主主義とは言えないはずである。ナチスが民主主義から生まれたと言われることも同様に誤りで、操られた形だけの投票は民主主義とは言えない。

 米ロ、米中の対立は同類他者だからである(同じ自由主義の兄弟のようなもの。全体主義も自由主義の一つの状態である。後述するように共産主義も社会主義ではなく自由主義である。同類他者を自己の独占支配を脅かす敵と決めつけて不寛容に激しく攻撃するのはまさに自由主義であり動物的本能である。理念の争いなどではない。)。自由主義は同じ不安回避によって、この攻撃と一方では隷属という両極を生み、隷属の典型が日米である。個人が権威に、国民が国家に隷属する状態は全体主義を構成する。世界が資源の争奪になれば全体主義は強いが、全体主義は100年もたず崩壊し、また再生しを繰り返し安定しない。自由主義の人々が増殖し人類の人口が増えていくことは私には人類自滅への行進に見える。バイデン大統領が「専制対民主主義」を言い出した時、結局トランプ氏と同じではないかと非常にがっかりした。その二元思考、レッテル貼りでは民主主義は実現しない。民主主義は「中庸」にあるのだから(「共有」を基軸としつつ自由主義の要素も必要最小限、必要悪として含む。レッテル貼りで巨大な看板を掲げたら、もはや「抑制」はない。)。

 現在の日本で自由主義のバロメーターは、自民党や日本維新の会の議席占有率であろう。後者の自由主義はその不寛容さから特に濃厚に見え、国政政党として躍進する状況はまるでアメリカのトランプ氏の躍進のようである(パラノイアのような状態を生めば、カルトと同じで危険である)。

 

 自由主義は中庸ではなく両極を導くが、二極化として連想するものに雌雄の分化がある。そういう意味で自由主義は野生的とは言える。といっても生物の世界は雌雄がはっきり分かれるものばかりではない。NHKスペシャル「命をつなぐ生きものたち 第2集水中の恋」を視聴していたら、1個体が雌雄の両性を持ち、交尾で対等平等に遺伝子を交換し合うウミウシを紹介していた。出会いが希少な海中では様々な生殖があり、オスが吸収されてしまう全体主義のようなものもあった。植物には、自家不和合も自家交配も無融合生殖もある。自家不和合の種であっても老化により自家不和合を克服する場合もあるそうだ。自然界においても、自由主義だけが唯一のあり方ではないということである。

 

 

信教の自由の緩さに便乗しているのは誰

 国家が特定の宗教を強制したり、弾圧したりしないということが、信教の自由の根幹にあり、これが政教分離の本質で、政教分離は信教の自由を保障するためのものということになっている。政教分離とはそういうもので宗教団体の政治活動は規制されないことを公明党などが盛んに発信しているが、政権与党と宗教団体が一体であるということは、「特定の宗教が政治上の権力を行使」している状況に近くなるのではないか(憲法第20条第1項後段の禁止事項には当たらないという緩い解釈が通例のようではあるが)。つまり、「特定の宗教が政治的な力を持つ=政治上の権力を行使している」というのが一般的な感覚ではないか。宗教の明確な定義はないため難しいが、宗教の特殊性は、何らかの教義や行動原理によって多くの人をからめとり、一般的な団体よりも「信じる」力により結束力(統制力)が強いという点があり、さらには、妥協なく教義を追求する潔癖さ(潔癖=相手の自由を許さない=不寛容=自由主義)によって社会を変革しようとし、それに合わない人を排除したり、徒党を組んで破壊活動も行うという団体もあり得るという点である。宗教団体が政治的な力を持つことに対して一般の人が警戒心を抱くのはそういうことに対してであろう。「宗教団体への自由の制限は、宗教や信条による差別だ」という指摘は、宗教団体の特性を考慮した均衡を欠いている。たとえ国家が特定の宗教を強制したり弾圧したりしなくても、特定の宗教団体のほうが力を持って政治を左右し始めたら政教分離に反すると考えるのが一般的な感覚ではないか。そこが全く無防備でゆるゆるに見えるし、自由主義(保守)の政党がむしろそこに便乗してしまっていると映るのである。


 自由とは、私が思うに、自己の意思で決め実行できる選択肢の多様さや大きさであり、まさにどの宗教を信じるか信じないかの選択肢が保障され、その活動も基本的に制限されない。また、個人が政治活動の自由を保障されているように、宗教団体の政治活動も自由ということになっている。ところが、法律上の宗教の定義はない(無数の宗教の定義解釈があって難しいが、だからといって無制限に緩くていいのか)。


 信教の自由の緩さをいいことに、実質的に自由主義(保守)の政治団体が宗教団体を自称し、洗脳で信者を増やし、彼らの信教の自由を実質的に奪い(洗脳ということは、理性的な判断を奪い、つまり本来の「自己決定」がなく「自由」な意思ではない。信教の自由と矛盾。)、そして信者から搾取し、それを資金源に活動を拡大させて、政治を左右する力まで持った(与党候補の当選を左右する、当選させて教義を政策に反映させる)のが旧統一教会である(「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のように、信教の自由の過剰な緩さがむしろ信教の自由を奪う状況や政教分離を逆の意味で脅かす状況を生じさせている。信教の自由を実現するには、無制限な自由ではダメということである。)。自民党などの自由主義(保守)政党も、まさにこの信教の自由の緩さにつけ込んで、旧統一教会の組織力、搾取力(無償の選挙運動員なども含む)を利用しているのではないか。ただの政治団体や政党の支援団体との違いは、おそらく、前述のとおり教義にからめとられ「信じる」ことで結束力(統制力)のある団体という点であり、宗教を装うことにより、人々の善意や不安に働きかけて洗脳(扇動)しやすく、無償の奉仕を成立させる(いわば教祖を権威とする全体主義になる=自由主義である証拠)点であるが、問題はそういうものを宗教(宗教法人)として認めてしまっていることである(宗教の定義がないので、おそらく言われるままである。宗教法人法による法人設立において、「宗教団体であることを証する書面」により、活動実態の有無や状況を確認するのみで、そこに洗脳のようなものがあるか否かという審査はないであろう。また、書かれていたのかは知らないが実態として旧統一教会の中心教義とされていそうな「反共」とあっても信教の自由により認めるしかないのであろうか。これは特定の人たちを攻撃し排除する思想で、破壊性を持っているのだが。書面に書かれていなくても、実態を確認し審査するのだろうか...なければ言われるままである。)。政治においても特に自由主義(保守)勢力により扇動は行われるので、それらと一体といってもよい。煽って精神の独立性や自由を奪うことを「教え」とすることに関しては、制御不能な遺伝的自由主義の性質(前回記事)を何とかコントロールする一つの方法になり得るかもしれないが(キリスト教などは、神との契約によって縛るという考え方ではなかったか)、しかし、そのやり方は我を失わせ、火に油を注ぐ効果もあり、私は懐疑的である(現に、キリストが寛容の精神を教え示しているのに、キリスト教の社会は必ずしもそのようになっていない。特にカトリック、正教会、カルヴァン派は党派争い、不寛容や支配を許容する自由主義である。個人の信仰を問うルター派は別かもしれないが 。)。厳しい戒律のある宗教もあり、洗脳なども含めて「精神の自由を奪うか否か」という点での線引きは現実的には難しいかもしれない。破壊性、反社会性などを目安にするほかないように思うが、ならば、せめてその程度の規制は必要ではないか。もう一つは、繰り返しになるが、宗教団体の政治活動が本当に全く自由でいいのだろうか(政権与党となり政治的な力を持つこと、政権与党と癒着して影響力を持つことも可なのか)ということ。個人と宗教団体は別ではないか。


正邪の判断は自己責任という自由主義の発想(信教の自由の過剰な緩さは、自己責任の強要と同じ...性善説が成立しない自由主義の人だらけの社会では、一切規制しないのは「社会」の破壊・否定になる。)

 これまで、戦前戦時の国家神道など信教の自由に対する国家のあり方を否定するため、強制・弾圧をしないほうに振り切れて国家は一切関与しないということになってきた。内心の自由に関わる規制は法律上も極めて慎重な取り扱いとなっている。確かに正しいかもしれないが、それは宗教らしきものに対する正邪の判断が国民自身に委ねられていることを意味している。それも確かに正しいかもしれないが、ある意味でそれは自己責任の強要に近く、自由主義そのものである(つまり、社会が責任を「共有」しない状態である。カルトによる洗脳は、騙される人の責任が全くないとはいえないが、カルトを許容している社会にも同様に責任がないとはいえない、どちらかだけに責任があるという見方、社会が責任を共有せず騙された人だけに責任を押し付ける見方は歪んでいる。)。「国民は正しい判断をする」という性善説に寄った潔癖性でもあり、荷が重い。前回記事のとおり、潔癖そのものが自由主義であり、例えば「民主」を潔癖に追求すると、破壊も厭わなくなり真逆の自由主義になってしまう。「信教の自由」の過剰な緩さも、明らかに自由主義である。自由主義が進展すれば再び全体主義にもなり得る。宗教団体と自由主義(保守)政党が一体となって自由主義を進展させる現象はそうなることを物語っている。政権与党がそういうことをするのは、国家が特定の宗教を優遇している状況に近いのではないか。

 

 

自由主義(保守)という性質、そして日本人は

 

 自由主義(保守)には、前回記事のとおり、「何でも人のせい」という無責任(弱い立場の者を守らない)が本質的、本能的に付随しており、自民党にとって自分たちが頼る旧統一教会が信者の家庭を破壊し被害者を生もうが眼中にはないはずである(インパール作戦に関わった旧陸軍上層部が戦後になっても互いに自己正当化しかせず責任を押し付け合っていたのと同じ。現実度外視で作戦を強行された挙げ句、現地に置き去りにされ、飢えと病で亡くなった何万の人々が彼らの眼中に全くなかったのと同じである。)。日本人は自由主義が多数派なので(後述)自民党に限らずおおかたそんなものであろう。元軍人が戦争体験を語らないことも同様である。保身しかない。そのためには、信じられないような非人道性、残虐性も発揮する。それが自由主義である。

 無責任とは責任を「共有」しないことで、自由主義は過剰な不安から過剰防衛として特に同類他者を敵と決めつけて攻撃排除し、自由を独占し他者を支配し、自己に自由をもたらさないものに対し、現在も過去も未来も、社会も自然環境も、痛みも責任も情報も、あらゆる「共有」がなく(拒絶)、その結果、反省がなく無慈悲で刹那的でセクショナリズムで、環境問題(未来の人=子孫との共有)にも消極的となる。これは、耳が痛い話は聞かず耳触りのよい話は聞くということで、理性よりも情で動くことに。日本の軍国主義=全体主義=自由主義は、明らかにこの無責任さのオンパレードによって敗戦を導き崩壊した。全体主義の体制は100年もたないが、ロシアの例のように、その(自由主義濃厚な)国民性があれば何度でも(全体主義は)再生してしまう。自由主義には一刻も早く不安から逃れるために、自己を放棄して強者にすがる性質もあるからである(全体主義をなす。熱狂とは強烈な依存心であり無責任である。熱狂で独裁者を倒しても民主主義にはならない。前述の「耳が痛い話は聞かず耳触りのよい話を聞く」により、すがる対象は「強いはず」という願望・妄想が強まり自国賛美、過信と固執=願望以外は全く信じない状態を生み、虚偽の情報を信じて拡散させる。)。全体主義は独裁者が一人で作るものではなく、国民性の反映としてできあがる。しかし、国民に主権があるわけではない(自ら放棄するから全体主義になる)ので、それは民主主義ではない。日本人も自由主義が多数派なので(後述)、全体主義は再生し得る。新自由主義は全体主義の前段階といってよい。自由主義がどのような作用をするのかわかっていないと、ただ「戦争はいけない」と言っているだけでは全体主義化は止められない可能性がある。「戦争はダメ」と言いながら全体主義化に加担することさえ起こり得る。あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」で、不寛容に駆られた破壊的行為、署名の捏造事件、有名人による扇動などが起こったことは、戦時の全体主義にあった残虐性、苛烈な同調圧力が今なお社会に存在することを示している。

 無責任のオンパレードで敗戦した過去の経験は自由主義の政府によっては「共有」されない、つまり反省はないので、無責任による失敗は何度でも繰り返される。原発もその一つかもしれない。

 自由主義の人たちは、「何でも人のせい」だから、騙された側が悪いとなり、騙すことに全く躊躇がなく(その躊躇のない態度に騙される人も多いだろう)、同様に利用された側が悪いとなり、他者(特に弱い立場の人々)を利用することにも全く躊躇がなく、一方で「何でも人のせい=無責任(他者を守らない)=依存心が強い(守られたい)」により彼ら自身が簡単に騙される。自由主義(保守)の人たちには洗脳されているかのような人が多いと感じるのはそういうことである。自由主義(保守)は前回記事のとおり遺伝的なものなので直らない。「何でも人のせい」は様々なハラスメントを起こし、悪質クレームや低モラルな行動により、例えばエッセンシャルワーカーを潰していく(自らサービスを破壊しておいて、さらに文句を言うわけである)。
 自由主義(保守)は、経済は資本主義に委ね、政治が国防と治安維持、体制維持に集中する状態であり、つまり自己防衛本能がそのまま政治体制になったようなものなので、政治理念ではなく遺伝的性質である。国防が重視されているから安泰かと言えば、かつての日本の例で言うと、まず軍国主義(全体主義)による自己過信の妄想があり、過剰防衛として(例えば資源がないため資源を獲得しようと)侵略戦争も行ったため、むしろ他国との軋轢を生み恨みを買い安泰とは言えなかった(敗戦の歴史がそれを証明している)。明治以降の日本の軍国主義(全体主義)の起源を辿ると、水戸学、朱子学、孟子に至る(尊皇と、孟子の王道・覇道の二元思考)。孟子は孔子の教えに性善説に基づく潔癖性(民衆への「過信」、王道覇道の峻別)を付加させ、儒教を自由主義化してしまった人だと私は思う(民主を潔癖に追求すれば民主になるだろうという誤り。孔子の教えがわかっていない。)。孟子の潔癖、自由主義は長い時を経て日本の日中戦争、太平洋戦争を生み、奇しくも孟子の出身地に近い青島を占領した。安倍元総理の事件にしろ、アメリカの同時多発テロにしろ(イギリスの資本主義がパレスチナ社会を破壊したことが発端)、自由主義の発信者(地)の脇に破壊として帰ってくるという不思議さがある。後者2つは「恨み」であり、自由主義は将来への遺恨、軋轢を生むということである。
 繰り返しになるが自由主義は遺伝的なもので、日本人は弥生人(渡来人)との混血により(自由主義が)多数派であり、日本で責任ある(程度によるが)政治が実現することはまずないと思う(血統の話は前回記事に。下※に概略を説明。)。混血度に地域差はあり、歴史的に近畿四国は濃厚で、大阪が商業都市であること、新自由主義の政党(独裁も志向)が大阪で躍進していること、戦前は大阪で国防婦人会が生まれ軍国主義を推進したことなどは関係がありそうである。自由主義の人ばかりの集団では、強権で押さえつけないと収拾がつかないとか(独裁になり、また独裁が期待され)、理性より情で動くとか、国防婦人会の例で言えば、家庭での抑圧、女性差別の不快から逃れようと社会活動に走るとか、自由主義の人だらけの環境と当人の自由主義の気質との相互作用で起こっていると考えることができる。ただし、大阪の多数派は全体主義がよくても、かの政党が躍進して全国に影響が波及することについては他の地域で不快に思う人はあるだろうと思う(私もそうである)。彼らの他の政党の自由を絶対許さないという不寛容さは突出しており、明らかに自由主義の傾向を有し、良い政策を生み出して社会を良くするというより(それらしく見えてもそれは本来の目的のための表向きの姿)天下を取って国を独占支配することが目的に見える。天下を取ったあとに不寛容さはどこに向かうかと言えば次は国民に対してに違いなく全体主義となる。例えば大阪では、大阪市が行政権を持つことを許さないという構想による住民投票が既に2回行われている。また、彼らの政策提言を見ても国民への不寛容と全体主義は明らかで、その一つとして例えば、彼らの言う「透明性」はマイナンバーに個人情報を強制的に紐付けて国民を丸裸にすることだけが書かれており、要するに絶対に納税義務から逃げることを許さないということだけで行政の信頼性のほうは全く眼中になく一方的なのである(驚いた。明らかな全体主義志向。「搾取」の強化はまさに新自由主義=濃厚な資本主義。自由主義の旧統一教会と本質的に同じ。)。マイナンバーカードがなかなか普及しないのは、まさにこのことが示しているように、政府が信用できないからで、それは自由主義だからである(北欧のようにはならない)。各自が独占支配を目指し無制限に競争するあり方こそ「見えざる手」が最適へと誘導する正しいあり方だという幻想、虚構がまかり通ってきたが、それが導くのは戦争が永久になくならない世界である。さて、近畿四国の話に戻して、もう一つ象徴的エピソードを挙げると、土佐出身の岩崎弥太郎(三菱財閥創始)が独占主義で政府と癒着し海運を独占し利益も独占したのに対して、深谷出身の渋沢栄一は合本主義(資本主義よりも事業の公益性を重視し利益は出資者に分配、道徳経済合一説の思想的基盤がある)を掲げており、岩崎の独占主義そのものに強く反発し対立した話が有名である。 

 日本の「恥」の文化(戦時の「生きて虜囚の辱めを受けず」とか、武士道などの中にあるもののこと)も、明らかに潔癖性の現れで、非常に濃厚な自由主義があることを示している。ということは、自由主義の様々な性質、現象がこの「恥」の文化にはあるはずで、つまり不寛容(許さない)、無責任、残虐性、無反省などが当然に伴っているに違いない(「責任」とは、一つは弱い立場の者を守ることで、明らかに守っていない。「反省」とは、過去の経験を自分自身も含めて「共有」し現在や未来に生かし、特に未来の人を守ることであり、自己否定のことではなく、むしろ「恥」として自己を否定するのは自己の放棄、つまり責任の放棄と同じ=未来の人を守らないということになり、さらにそれを「恥」と決めつける規範のことを責める心理(人のせい)もおそらく働いている。自由主義には、自己に寛容で他者に不寛容という無責任も、自己に不寛容で他者への不寛容も含むという無責任もあるということである。「恥」として隠しても自己否定の実態に全く変わりがないので同じこと。隠すということはまさに「共有」の拒絶そのものであり「反省」とはなり得ない。)。自由主義が多数派の日本では、文化として今もこのあり方を肯定される方もあるのだと思う。しかし、この無責任なあり方では国を守ることはできない。つまり、潔癖性を守ることへの自己満足、「滅びの美学」として信奉されているのであろう。自由主義ではない古い人類からある、生得的普遍的なモラル(憐れみや自制心など)とは違うあり方だと思う。普遍的なモラルは、社会的生物として協力し合って生きるあり方が遺伝的に人類に備わった結果として身についているに違いなく、許さないとか、自己否定、自滅を志向する「恥」の文化はこれとは違うように思うからである。
 本稿では、他者が与えて「道徳」と呼ぶものを、生得的普遍的なモラルと区別し、「道徳」の語は用いない。教育勅語のように全体主義の洗脳、扇動の道具とされてしまった事例があるからである。渋沢栄一の「道徳経済合一説」は言及したが、この「道徳」は普遍的モラルに近いもののことであろう(抑制的な自由主義を志向しているようなので)。


(※血統に関して)弥生人の系統と同じY染色体ハプログループOの系統は華北漢民族、朝鮮民族、東南アジアの人々で圧倒的多数派。他に自由主義の気質と考えられるのはY染色体ハプログループR、N、Q、MSの系統などで、Oも含めて全て約4万7千年前に中東辺りで生まれたKの系統の子系統である。O以外はRがアイルランド、イギリス、イベリア半島、南欧の一部、東欧、ロシア、Nがロシア、北ユーラシア、Qがアメリカ大陸先住民、MSがオセアニアなどで高頻度。おそらく農耕を発明し、大航海時代を牽引して植民地を開拓し、産業革命を起こし資本主義を拡大し、自然の「支配」、人間の「支配」を始めた人々。時期や地域からマンモスを絶滅させたと私は想像する。島など地理的条件でK以前の系統がいくらか残った例は、北欧のIの系統、チベットや日本のDの系統(日本は縄文人)など。K以前には「共有」の文化があった。現存最古の人類とされる南アフリカのサン人(Aの系統)は対等(平等)社会。Kの系統の子系統がそれ以前の人々を駆逐しながら世界中に拡散したと考えられる(現在ユーラシア、アメリカ大陸の男性の半数以上とされる)。Kの系統の1人に起こった遺伝子の変異により過剰な不安を持った人が現れ(旧約聖書の「原罪」の話は、その記憶が形になったものであろう)、その性質から子孫を爆発的に増やしていったのでは。


自由主義と民主主義の関係/「潔癖(不寛容)」では民主主義を導けず自由主義となる

 民主主義における自由とは、前回記事のとおり、絶妙に「抑制的」なものであることがあまりにも理解されていない。無制限な自由は自由主義であり、明らかに民主主義を離れ、秩序(社会)の破壊、その結果として独占支配(独裁)を生むということが理解されていない。自由を求めて戦ったのに再び独裁になるのは、自由主義だからである。しかし、それは当人たちのせいというより、自由主義は遺伝的性質なため制御が困難だからである。

 自由主義の規制緩和は、イノベーションによる成長ではなく、資本主義と一体となって搾取を強化し、新たな独占支配を作る。その現象が理解できないのは、中曽根政権や小泉政権の新自由主義がもたらした結果とその仕組みを未だ理解できていないということである。政治の独占支配(非民主主義)を作る自由主義(保守)と経済の独占支配を作る資本主義は互いに邪魔せず手を取り合い一体なので、資本主義の抑制のない追求と民主主義の進展は両立し得ない。資本主義の基礎は私的所有、つまり「排他的独占支配」であり、もともと自由主義と同根、同じものなので区別できないといったほうがよい。資本主義を強めれば民主主義が弱まるのは当然の結果である。日本で新自由主義(=過剰な資本主義に見える)の強力な推進と同時に、一強・官邸支配が強まったのは当たり前のことで、「なぜ」という声があったのはやはりこの現象が理解できていないということである。同様にグローバル経済を強く推進した結果が、中国、ロシアという全体主義(自由主義)勢力の台頭、トランプ氏の台頭である。独占支配が行き過ぎると経済は停滞するが、現在の中国のように独裁と資本主義は上手く共存し進展している(当然格差は拡大する)。中国の場合、社会主義「的」なコントロールもいくらか行使するために(巨大企業にもブレーキをかけることがあるなど)、過剰な自由主義資本主義がいくらか抑えられて成長も可能なのではないか。
 このように(資本主義と民主主義の反比例性を)言うと、民主主義は社会主義なのかということになり、確かにそのとおりなのだが、私たちは本来の社会主義の姿をあまり知らない。というのも、一つは、社会主義と見なされる共産主義は、共有を装った国家による独占支配なので、自由主義資本主義であり社会主義とは言えないからである(資本主義を否定しながら自ら資本主義に。潔癖な追求がもたらす真反対。日本共産党につにてはどの程度潔癖なのかは知らないのでわからない。ここは旧ソ連や中国の話である。)。もう一つは、自由主義資本主義を潔癖に排除すること自体が破壊性(共存を壊すことは民主主義の前提の破壊になり自由主義になる)を伴い自由主義になってしまうため(要するに共産主義と同じことに)、資本主義ゼロが民主主義なのではなく(反比例でもゼロにはならないが。資本主義と社会主義を二元論的に両極として分離することはできない。二元論的なレッテル思考「決めつけ」による偏見自体も、それにより攻撃排除を行うことになり自由主義である。)、自由主義資本主義を抑制的に絶妙のバランスで必要最小限に生かしている(専守防衛の武力や抑圧と言われない程度の警察権力など)のが民主主義、社会主義であり、そのような好例が身近に見出しにくいからである。本来の民主主義、社会主義に近いのは、北欧などの社会民主主義である。民主主義の捉え方、自由主義の特徴の詳細は前回記事をぜひ読んでいただきたい。なお、自由主義の国民性では民主主義の実現は非常に困難である。共存、分かち合い(共有)の発想がないため、主権が一部の人に独占されてしまい「国民主権」とはならないからである(小選挙区制はまさに、短期にそれを行う自由主義の制度そのもの)。国民主権は当たり前に多数派支配ではなく、多数派支配の先には全体主義(同調圧力で仕方なく従う人、支配者の提供する虚構を信じきる人が多数の状態)がある。多数決が民主主義だ(多数派支配が当たり前)と思っているところに民主主義は成立しない。多数派支配に無責任に乗っかって依存していれば、いつか主権を失ってしまう。何を是とし否とするかなどを含めて多数派の「独占支配」ではなく、いいことも悪いことも「共有」して「自分たちの社会」という感覚、責任感が持てなければ民主主義にはならない。


 これらの理解が阻まれるのは、一つは、独占支配の主体が、資本主義の強力な推進によって人々の自由が増えるという嘘、幻想を吹き込み宣伝するからである。小泉政権や安倍政権が「規制緩和で皆さんの自由は奪われますが...」と言ったであろうか。それどころか「規制緩和で経済が良くなり、皆さんに富が滴り落ちてくる」という宣伝をした。実際は、株価の上昇などが起こり確かに独占主体だけは潤ったが、富が滴り落ちることはなく、格差は拡大し、一般市民は貧困化した。労働法制の規制緩和で、非正規労働が爆発的に増えて、人々の生活の安定は奪われ、実質賃金は下がった(「規制緩和→資本主義の進展→搾取の拡大」なので当然の結果)。もう一つ、理解を阻むものとして、政治と経済は別というご都合主義を信じる国民性がある。独裁的な政治により必然的に経済の格差は拡大するにも関わらず、強そうなリーダーにすがろうとする。そして豊かにならないと文句を言い、ますます強いリーダーを求めてドツボにはまっていく。
 資本主義そのものが成長を生まないというより、過剰な自由主義資本主義によって独占支配が強まり、生み出した富が共有されず、過剰な競争で搾取によるコスト圧縮となり、イノベーションが起こらない、保護されないために成長できないということである。過剰な資本主義に向かってたがを外すのが「規制緩和」である。日本の戦後の経済成長の一つの要素は、戦争体験により(戦争を起こした)自由主義に対してブレーキが働いたことだと私は思う(過剰な自由主義資本主義に至らず、いい塩梅となった。国が領土的野心を持たないだけでなく、社会保障、公共投資、格差是正、福祉国家という発想ができ、実際そのような政策が実行された。)。戦争体験世代が社会の中核からほぼ消えて自由主義にブレーキがかからないのが今の状況である(奪い合い、潰し合いの世界。経済成長もできない。)。若い人が右傾化していると言われるのはまさに戦争体験世代の影響が薄れていく状況を物語っている。日本はどういう形にしろ再び愚かな選択をする可能性は十分ある。都合の悪いものは「共有」しない自由主義では、いかにも過去の人や他者の経験から学びそうな「保守」という名と実態は全く違って、他者の経験から一切学ぶことはない。自らが痛い思いをしない限り自由主義にブレーキはかからないのである。しかし、世界の紛争地では痛い思いをしてもブレーキはかからない(我を失ったまま)。痛い思いでブレーキがかかるのなら、まだましなほうなのかもしれない。
 理解してみる気になっていただけたであろうか。


 繰り返しになるが、潔癖に追求するとますます目標から遠ざかるという現象は非常に重要である。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の文言からは、やり過きてもちょっと足りないくらいだと軽く考えるかもしれないが、実際はもっと激烈な結果を招く現象ではないかと私は思う。共産主義のように、資本主義を潔癖に批判して行動した結果が自ら資本主義では、足りないどころか真反対である。例えば、街頭で若者が何か熱心に「社会のため」のことを訴えていて、何か企んでいるわけではなさそうなのに、「胡散臭く」感じてしまうのは、潔癖の結末を本能的に感じとってしまうからかもしれない。こう言うと、努力することを否定するかのようになってしまうので補足すると、潔癖が不寛容(他者や自分を許さない→攻撃排除)となった時が問題ということである。寛容さを保って努力すればいいのだろうと私は思う。その点、宗教は不寛容さを伴う潔癖さを纏うことになりがちだろう(特に一神教では神は唯一絶対の権威なので)とイメージされ(誠に勝手ながら)、私はやはり胡散臭いと感じてしまう(潔癖さによって「過ぎたるは及ばざる」が強烈に効いて「掲げる理想や理念とは真反対の現実」を導くのではないか...まさにキリスト教の国による戦争など。潔癖な信仰は無信仰と同じではないか...潔癖さが招く「人を許さない(自分の)心」を最上位としている=信仰はないということ。)。詐術により、それを隠して寛容さを見せながら近づいてくる場合も、カルトなら十分にあり得るのでご用心(取り締まってはくれないので自分で用心しないと)である。旧統一教会はまさにそんな感じなのかもしれない。危険なものは危険なものとして扱い防衛しなくては民主主義は成立しない。前述のとおり必要最小限の自由主義を生かすのが民主主義だからであり、無防備の寛容(「不寛容=自由主義」がゼロの状態)は民主主義ではない(そうでないと都合が悪いから言っているのではなく、自由主義を完全排除しようとすることそのものが自由主義となり「共存」という民主主義の前提を壊すことになるので、必然的に民主主義は「中庸」の領域にしか存在しないからである)。「信教の自由」の過剰な緩さはやはり民主主義とは違うと私は思う(つまり、自己責任を強要する自由主義と同じ=結果として自由を奪う)。

 個人的には、よい教えに出会ったのなら、あとは個人としてそれを自分の人生に生かし実践してみるだけのことではないかと思う。団体に所属するというのは、そこでパートナーを見つけようとか、不安がどうしても解消できずに「すがって」いるということではないか。特に後者では教祖が絶対の全体主義になり自己を失ってしまい、組織の拡大要員などの無償奉仕や金蔓として利用されてしまうだけではないかと思う。この構造自体が悪質商法じみているではないか。「信教の自由」のもとにこれが野放しになっているということを旧統一教会が示している。


信教の自由の過剰な緩さが政治を歪めている

 旧統一教会問題と「信教の自由」を切り離したがるのは、おそらく自由主義(保守)の勢力ではないか。彼らが何かと「規制緩和」を求めることと本質的に同じである。「緩さ」は独占支配の挑戦のために好条件だからである。
 反社会性は確かに自由を抑制する目安ではあるが、信教の自由の緩さそのものが、結果としてカルトや保守政党による支配を招く一因となっている実態、本質を無視してはいけない。自民党が旧統一教会との関係を断ち切ったと宣伝しても、根幹である「信教の自由の過剰な緩さ」がある限り、再び同様のことが起こるであろう。
 自由主義(保守)は全体主義にもなり、戦争をも生み出すのだから、反社会性、破壊性(旧統一教会の場合、信者の生活や家庭を破壊)を持ち、洗脳・扇動をする(精神の独立性=自由を奪う)のも当然であり、旧統一教会は明らかに自由主義を行動原理とする団体である(「反共保守」を掲げていることからもそれは極めて明瞭。本稿を理解していただければ、もうそれだけでどういう団体か察しがつくわけである。信者の家庭を破壊しても全く責任を感じることはなく、そんなことは眼中にないであろうし、保守による「反共」とは同類他者(兄弟)への攻撃であり、ただただ世界を支配することだけを考え、妄想だけを信じる人が集まっているのであろう。これに騙されるのは、弥生人の遺伝子に由来する自由主義の性質によって、無責任=他者を守らない=守られたい=強烈な依存心があり、なおかつ当人自身も「家」の支配・因縁から逃れて自分が優位に立ちたいという、もともと家庭破壊の動機を持っていたに違いない。その周りの人々が被害を受ける。)。これを宗教と認める「緩さ」が政治をも歪めている。

 

 

(前回記事)