キリスト教でも仏教でも儒教でも直せない英米中ロの自由主義..日本は

(最終改訂2022/8/27   8:25)

 本ブログにご来訪くださりありがとうございます。 今回は、前回の記事の延長です(一部は再掲)。 

 

[はじめに]

 ロシアによる侵攻があり「民主主義の価値観が揺らいでいる(世界は再び二極対立へ)」などと最近よく言われますが、そもそも民主主義の捉え方が間違っています。欧米の中でも特に英米は強い自由主義で、本文で説明するように実は権威主義、全体主義(国家が強烈な自由主義を行う)とは一歩手前なだけで同類です(英米がいくらか人権を大切にすると言っても差別や格差は厳然としてある)。政治の独裁(保守=本能的な欲求から国防と治安維持、体制維持に集中する状態)を作る自由主義と、経済の独裁を作る資本主義は互いに邪魔せず手を取り合い完全に一体なので、資本主義を(抑制せず無制限に)進展させれば自由主義も進展する(つまり同時に民主主義は弱まる...直接的には例えば共存から排除された難民の増加なども起こる)のは必然です。グローバル経済で資本主義を進展させた結果が自由主義が強まっている現状です(ロシアや中国の台頭、トランプ氏の台頭も)。そして自由主義が強まるとさらに資本主義も進展するわけですが、ロシアが世界の既存の秩序を壊して資源を囲っている状況がそれです(資本主義の本質は搾取と独占支配)。自由主義(保守)は遺伝的なものなので直しようがなく、もう世界の人々の多くに浸透しており、本来の民主主義(社会民主主義、本来の社会主義と本来の民主主義は一体不可分→後述の「共有」。理念の要素=自由主義からの自衛としての「主権」の概念と、遺伝的要素=過剰な不安に支配されない性質。中庸であり「抑制的な自由主義」を含みます。)のほうは、とっくに希少種になっていて、北欧などごく一部にしか残っていません。そもそも民主主義は自由主義と張り合ったりしない(専守防衛までであり、張り合いだしたら民主主義ではなくなっていく=潔癖性つまり不寛容性を増せば自由主義化してしまう)ので目立ちません。二極対立で張り合っているのはどちらも自由主義です。このことからも類推できるように保守も共産主義も同じものです(潔癖、不寛容自体が自由主義で、保守も共産主義も自由主義です。同一性がわかっていない人が多いと思います。少し考えれば矛盾に気づいてわかるはずなのですが...共産主義は見せかけの「共有」で実態は国家による独占支配(資本主義と同じ)、保守は(保守の言葉のイメージとは異なり、「既存の規制を壊してでも独占支配」を志向するので)共産主義と同じ全体主義に接近していく...しかし、矛盾に気づいても「あの保守はおかしい、ニセの保守だ」となって洗脳(自己を棚に上げて共産主義を悪とする)から抜けられない...保守に「あの保守」も「この保守」もありません、遺伝的性質なので。)、保守による異常な共産主義への敵意は兄弟のいがみ合いと同じです。そして右や左に囚われる人はまるで統一教会に洗脳されているかのようです。ロシアは共産主義でなくなったのに米ロが対立するように、これらはイデオロギーなどではなく「遺伝的性質」であり、同類どうしのいがみ合いです。民主主義と言うなら、潔癖・不寛容(強い自由主義)か寛容(民主主義における共存、相互に主権を尊重)かという軸で見るべきで、英米中ロはいずれも不寛容な自由主義です。

 なお、民主主義とは国民に主権がある状態を指すのみで、そこから多数派支配(多数決=小選挙区制=少数派の排除による独占、全体の利益最大化を口実とした全体主義=中国式=少数派を弾圧)や、各々が無制限に(自分勝手に)自由を追求するあり方(英米式)は当然には導かれません。勘違いされている方が多いように思います(日本では多数決は当たり前に民主主義だと思われている)。全体主義は「個人」の尊重、つまり人権の尊重がない点が国際的にみても民主主義とは見なされない要素になります。この考え方自体も多数派支配かと言えば、「人権が無いのは人民に主権がないのと同じ」という主張は自明だと感じます。そして、全体主義は多数派支配の一種だと私は考えます(多数決=小選挙区制の世界と全体主義はつながっている)。多数派支配では、同調圧力によって自己の意に反して仕方なく従う人や認識の歪みにより支配者の提供する虚構を信じきる人がかなり多数となる状態が起こり得ると考えるからです(即ち全体主義)。ちなみにdemocracyの語源でも、ギリシャ語demokratia(demos人々、アテネでは地方自治の共同体+kratia体制)から、意味は「人民による体制」のような感じです。「人々」を「多数派」で捉えたくなるのもわかりますが、多数派支配や各自無制限な自由の追求は自由主義であり、程度を増せば「人々が共存する社会=国民の存在」という民主主義の前提を壊す働きがあります。民主主義の場合は必要悪的に「共存」のために、「抑制的な自由主義」を絶妙なバランスで許容し用います(専守防衛の武力、人権の抑圧と言われない程度の警察権力、貪欲さへの抑制、「公共の福祉」による自由の抑制など)。また、主権を成立させるには、①相互に「個人」を尊重すること(扇動などで感情、思考を操作され自己を喪失していれば「道理として」主権者とは言えない=そういう人が多数では民主主義は成立しない。扇動されずとも「もともと理性を持たない人」も同様に「道理として」主権者と言えるか疑問である。)、②社会(自然を含む)を「共有」している感覚(いくらか意思が反映されること、責任も「共有」すること=弱者を守ることは社会を守ることでもあり責任の一つ、独り占めしないこと=「抑制的な自由主義」=「貪らない」など)が必要です。遺伝的には、自由主義とは異なり、過剰な不安や恐怖に支配されにくい性質(他者を信用し、協力を可能に。独占支配しようとしない。)により導かれやすいと言えます。自由主義を(潔癖に)無くせばいいかというと、その「排除」の力自体が強い自由主義となるため不可能で、必然的に可及的最小の自由主義=絶妙な「中庸」が必要です。

 ちなみに、デモ行進のデモはdemonstrateの略で、語源はラテン語「de(強意、完全に)+monstro(示す)」で、示威行為の意味です。民主主義とは関係ありません。恐怖政治で行われる「見せしめ」は、権力者によるデモだと私は思います。

 民主主義は半ば持って生まれた生得的なもので、持たない人には実現は非常に難しいものだと思います。民主主義を成す遺伝的性質は新しいものではなく、4万7千年前までは、人類は既に普通に持っていたものですが、その後失ってきたものだと思います。自由主義資本主義の「遺伝的性質を持つ」人々が増えて広がってきたと考えるからです。自由主義資本主義は、今や地球規模の環境をも変化させて、自らの存立すら危うくし始めています。
 また、自由主義(保守)の性質を持つ人の残虐性は、全体主義という「個人」の否定を通じて、もともとは自由主義でない人の生得的普遍的モラル(憐れみや自制心)まで消失させ、集団的な残虐行為を生み、他者の自由を許さない自由主義が生む差別やいじめも拡大させます。

 


[ポイント]

 

●自由主義と性悪説
 遺伝的に自由主義的な傾向の強い人々の集団では性悪説に。例えば、性悪説でないと推理小説は生まれないであろう。エドガー・アラン・ポーの両親は共にスコットランド系アイルランド人、つまり後述のR1bの系統の可能性が濃厚である。 

 

●保守は自由主義であり本能だから直せない、そして無責任(弱い者を守らない)

 「保守」とは自由主義の国家が「小さな政府」の追求と合わせ国防と治安維持(体制維持)に集中する状態であり、自由主義が過剰な不安や恐怖から生じる遺伝的なものであることから、「保守」は政治思想や理念ではなく遺伝的性質であり(以下でも繰り返し言及)、その性質上(過剰な不安→「攻撃は最大の防御」式に過剰防衛となり)、現状維持でなく拡大志向となる。止まることのない内在的欲求を起源としているため、「こういう保守がいい」と言ってもそうはならない。伝統や経験知を大切にし現状維持を志向しそうな「保守」という言葉のイメージとは逆に実際はむしろ動物的本能から既存の秩序を壊してでも独占支配を志向し拡大傾向となるのが「保守」である。「こういう保守がいい」という主張(そう主張する政治学者がいる)は妄想ということになり、妄想の流布は扇動の要素にもなり得る(ないものをあると言うのだから)。アメリカの保守は、「反人種差別」がむしろ白人差別だと政治問題化しこれを攻撃しているが、まず差別自体が後述の「決めつけ」という自由主義、「人のせい」も自由主義、そして非白人の人口増加により自分たちの立場が弱くなることへの「恐れ」がこの攻撃の根源であり、これもまさに不安や恐怖を起源とする自由主義による「保守」を象徴している。さらに、妊娠中絶に強硬に反対することについても、自由主義の遺伝的性質が(自己の子孫が絶えることへの過剰な不安から)「産んで殖やす」ことを強く求めているからではないか。しかし、後述するように自由主義(保守)が全体主義を導くあるいは自由主義と全体主義は同じだとすれば、全体主義では「我が子より国家が大事」にもなることが、この子孫を殖やす過剰な傾向と一見矛盾するが、全体主義は心理的には、言わば「(民族、一族の)存亡の危機状態」で、民族、一族全体としての存続に託そうという心理が過剰に働くのではないか。その一方で、保守のトランプ氏が地球環境問題に全く取り合わなかったように、自分たちの子孫に対して全く責任を感じない(守らない)という矛盾と冷酷さがある(やりっ放しで放置)。最近は海洋の酸性化(二酸化炭素由来)についてもよく聞くようになった。生態系の底辺が壊れ、何十年というオーダーの近い将来に海洋生物が目に見えてダメージを受け始める可能性もある。

 

●仏教の三毒と自由主義、中庸と民主主義
 仏教の三毒=貪瞋痴(とんじんち、貪る・憎悪・妄想と無知で愚か)は、自由主義(資本主義)・全体主義の姿をかなり正確に写し取って表現しているかのようである。さらに、孔子の言う「中庸」は民主主義の姿でもある。


●自由主義資本主義・全体主義は遺伝的性質だから直せない、真実も責任も痛みも過去も未来も「共有」できない(無責任、無慈悲、無反省)、過信も全く信用しないのも、溺愛も虐待も自由主義
 自由主義(資本主義)・(自由主義の延長にある、あるいは自由主義と同じ)全体主義は遺伝的性質なので直せない、直らない。重要な点は、これは宗教などで罪とか堕落とかレッテルを貼り断罪する話ではなく(もう、それをやってること自体が自由主義)、遺伝子の変異という自然現象が「たまたま」不都合に見える変化をもたらしたに過ぎないということ。たった1人に起こったDNAの塩基のいくつかが置き換わるという超ミクロな現象がとてつもない災難を引き起こしている。自由主義の性質の根源は「過剰な不安や恐怖」であり、奪われる不安から他者(特に同類の他者)を「不寛容(相手の自由を許さない)」に攻撃排除して独占支配(飽くなき拡大志向)となり「共有」がない(なわばりを持つ生き物の習性に似るが、核兵器も手にした人類がそれをやるとたまったものではない。)。社会も地球環境も、過去の経験も真実も責任も他者の痛みも、それらを今の人とも未来の人とも過去の人とも「共有」しないため(自己の自由を制約するものは特にである。そのため耳が痛い話は聞かず見触りのよい話だけを聞くことに。)、無責任(何でも人のせい)、無反省、無慈悲、刹那的、セクショナリズム(旧日本軍でもそれは顕著で情報が共有されず敗戦の要因に。陸海軍は互いに失敗の原因を相手に責任転嫁し合い協力が成立しなかったことで数多の犠牲を生んだ。)、「兵站なしで戦え(命令して放置)」になる。反省とは、過去の経験を自分自身を含め「共有」し、現在・未来に生かし、未来の人を守ることである。自由主義どうしでは自己の落ち度を認めれば相手が有利になるという極度の不安の心理が働き(=臆病)、自己の非は決して認めず「何でも人のせい(責任転嫁、無責任、自己正当化)」となる。また自由主義には、根源的な「不安」から逃れるために強者にすがり依存し自己(の責任)を放棄して自ら支配される性質もあり、全体主義をなす。
 太平洋戦争では、物量の豊かさだけでなく、真珠湾の反省を「生かし」てぬかりがなかった米国と、全体主義により軍内部、前線、国民の間で「あらゆる情報が共有されなかった」日本との差は明瞭で、この戦争でこの点に関しては米国は民主主義による「共有」が機能した。ミッドウェー海戦では、空母赤城は気づいているだろうと「過信」し、「米空母が近くにいる」との情報を伝えず大敗につながったこと、大敗が勝利として国民に伝えられたこと(大本営は真実を国民に伝えれば戦意を喪失すると「恐れ」て国民を「全く信用せず」、国家がフェイクニュースで国民を操作し、一方で国民は連戦連勝の報に全く疑問を持たず鵜呑みにして大本営の虚構を信じ、自国を「過信」した)。前述のように自己の自由を制約することは特に「共有」しない性質=「耳が痛い話は聞かず耳触りのよい話だけを聞く」から、全体主義では自国賛美・民族的優越意識の妄想・過信を生む。「個」を否定し「皆同じ」を強要する全体主義は一見「共有」がありそうで実際は真逆となるのは、全体主義は自由主義の「支配」(「空気」も「支配」の一つ)であり、「共有」という水平思考がなく、根源的には「恐怖心」により「すがる(自己を放棄する)」「人を信用しない」「(自分が)責任をとりたくない」からである(「過信」も「全く信用しない」も「恐怖心」を背景にした同等の認識の歪みであり、虚偽の情報だけを拡散させ、無責任が拡大する。ちなみに、溺愛も虐待もともに自由主義であろう。)。日本人は国民性により今も相変わらず、反省して経験を生かすということができず、虚構を信じ誤ったまま進み続ける性質が「平然バブル」「失われた〇十年」なども引き起こしている。日本人は自由主義の血統上の割合(後述)以上に同調圧力で全体主義化しやすく自由主義が濃厚となる(インパール作戦などの上層部のあり方 過信=科学軽視 無責任=馴れ合いで意思決定・兵隊や民間人は消耗品同等で置き去り・戦後も自己正当化と責任転嫁のみ)。日本の保守の人々の靖国参拝は、それ自体が崇拝という全体主義に通じていて、全く過去が生かされず(過去の人との歴史の「共有」=反省がなく)、いまだに全体主義を志向して同じ誤りを繰り返そうとしている。全体主義における「崇拝」「自国賛美」「科学軽視」も「過信」の一つであろう。

 なお、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」に関して、不敬だからと激しい憎悪に駆られた行為、署名の偽造事件、有名人による扇動などが起こった件は、かつて現地住民を虐殺した旧日本軍の残虐性や無責任に似た精神が衣食足りた今でも変わらずあるということである。 

 このように問題の多い自由主義資本主義の性質を持つ系統の人々「なのに」、(後述するように)世界の隅々まで広がってきたのはなぜか。まず「広がった=増えた=優れている」という認識が誤りで、「なのに」ではなく「だから」、人類は「増え過ぎ」て様々な問題を起こし自らの存立すら危うくしている。自由主義の系統でない人々は明らかに抑圧され少数派で、人口過剰の主因は自由主義の系統の人々であろう(無責任に増えてきた)。 


●規制緩和は創造よりも搾取を強め独裁を作る(成長なし)
 自由主義は「規制を無くし(=既存の秩序を破壊し)自由競争」であり、資本主義と一体なため搾取を進行させる。その根源は「尽きない不安」で、それは「尽きない独占への欲求」となり、秩序の破壊(戦争と同じ)を要求するからである。旧統一教会の例のように、国外のカルトが堂々と日本の「保守」と結びついて国を乗っ取るかのような状況(与党の方針とカルトの方針が一致)は、信教の自由が緩過ぎて、国家による強制や弾圧はない(政教分離の目的である)一方で自称宗教団体が事実上政治を左右する力を持ち(政教分離と矛盾)、洗脳で信教の自由を奪い、規制緩和が招く「支配」である。保守(自由主義)が規制を外したがる裏には独裁(独占支配)の目論みがあるということがよくわかる。信教の自由を絶妙なバランスで規制し、政教分離を徹底し、カルトから自国を守るのが民主主義の姿で、保守(自由主義)はむしろ自国の破壊と第三者による支配を招いている。

 先般、誹謗中傷対策と称して通った「侮辱罪の厳罰化」は一見すると弱者保護の規制でも、少し考えれば言論弾圧が目的とわかる。何らかの指摘を伴う名誉毀損のほうが誹謗中傷に近いにも関わらず、指摘が事実と認められれば適用除外もある名誉毀損罪ではなく、幅広く拡大解釈できる侮辱罪で対応し、何より自民党ほか保守系の政党がこぞって賛成しているという点である。つまり、「誹謗中傷対策」は、かつての大東亜共栄圏と同じ「建前」。一見弱者保護の規制のようで、言論弾圧をしたい勢力にとっては規制緩和であり、存在だけでも圧力となり得る。国民の無関心(これも自由主義)が後押しして難なく国会を通った。

 

●全体主義の自国賛美はすがる心・依存心、だから自分を守れない

 全体主義では「すがる対象=国家」は強いはずだという妄想も生み自国賛美、民族的優越意識も顕著になる(「自国が不当に他国から貶められている、放置すればますます貶められる」という被害妄想(不安)と全体主義と自国賛美の妄想は一体的で、愛国教育などでその妄想を植えつけて全体主義を誘導することも行われる。独裁的指導者がいくつかの成果を見せることで、その強国の妄想が実現する望みとなり権威主義、全体主義が強化される...指導者にすがって依存。)。

 

●自由主義はなぜ欺瞞に満ちるのか

 自由主義では、同類他者への攻撃となり相手を否定する言葉がそのまま自分に当てはまり言行矛盾が起こる(自分のことは棚に上げ、自覚がないようであり、あたかも鏡像認知できない生き物が鏡像の自分を攻撃するかのよう)。類似のこととして、自分が生み出した人々の不満の種を、まるで他人事のように批判して支持を集めるという、あたかも自作自演のようなことも、(不満という感情に支配された)自由主義の人々なら成立する。さらに、今のロシアのように、相手の自作自演だというレッテルを貼って全部相手のせいにすることも起こり、真偽不明がさらに不安を煽り自由主義を強める。したがって濃厚な自由主義である全体主義において、そのようなことがしばしば起こるように感じる。

 

●不寛容、潔癖、人のせい、人任せ、横取りはそれだけで自由主義

 「不寛容」は自由主義の大きな特徴の一つで、他者の自由を許さないということ。「潔癖性」もこれと同じことで、潔癖による特定の対象への固執が「過剰」を生む。また、「過剰」は「尽きない不安→恒常的不足感→尽きない不満」により起こる飽くなき利益や領土の追求(仏教の三毒のうち「貪」、資本主義)でもある。さらに、「過剰」は極端、二極化も生み、一見真反対のものが極端ゆえにともに自由主義の姿で、「二極化」も自由主義の特徴である。資源を採り尽くし、自らの存立基盤である自然からの搾取(略奪、破壊)も酷くなる。かつて冷戦時代のアメリカでの「赤狩り」という「反共」の潔癖さは、もはや弾圧、恐怖政治で、全体主義での粛清と何ら変わらなかった(自由主義と全体主義は同じ、攻撃対象は同類他者)。全体主義、恐怖政治では、我が身を守るため「見て見ぬふり(=人のせい=無責任=自由主義。他者を守るためのものを除く。)」が社会に広がり(いわゆる「空気」が作られ)、体制が追認される(これも後述「自由主義の自動拡大」の一つか)。日本人の社会では同調圧力が強いということは、日本人は潜在的に全体主義になりやすい(半ばなっている)ということ(=自由主義が強い社会)。各々自分勝手な英米式(後述)とは一見逆のようだが、同じ自由主義(二極化は自由主義の特徴)。「見て見ぬふり」ではまだ良心の欠片が残っている可能性もあるが、「無関心(社会問題や政治などに対して)」ではその可能性は無く、完全に他者依存の無責任で、これも自由主義の一つと言える。さらに、「慎重さ」は責任を取りたくないことの現れでもあり、これも自由主義の場合がある。一見責任感があるようで実は自分を守っている場合がそれである。新型コロナの感染症法上の扱いなどを緩和するよう専門家が要請しても政府の腰が重いのもこれかもしれない。医療現場は逼迫し「兵站なしで戦え」になっている。効果不明なものは他者に押し付け、成果が上がれば横取りし便乗するのが自由主義(これとは少し違うが、例えば、日本の戦時には、軍功があり亡くなった兵士は軍神と祭り上げられて戦意高揚に利用された)。

 

●自由主義にはつきものの「決めつけ(レッテル)」の危うさ

 自由主義の攻撃には「決めつけ(レッテル貼り、責任転嫁、不寛容=相手を許さない...厳格に証拠を集めて真理を探求する科学よりも証拠が不十分で思い込みの要素が強く感情も入り、決め過ぎという過剰性がある)」による扇動(多くは、マイナスの感情を刺激して不寛容な加罰感情を煽り仏教の三毒の「瞋」を誘起し同じく三毒の「痴」を導くか、利益の拡大を示唆し欲(貪)を刺激して「痴」を導く。「公益」は良心を刺激するが、内容が虚偽なら扇動。これらは要するに詐欺と同じ、辞書的な意味のとおり、「煽り立て、そそのかして意見を変更させたり特定の行動を起こすよう仕向ける」こと。)が伴う。「善か悪か」などの二元的思考、特にそれによる峻別は「決めつけ(決め過ぎ、レッテル貼り)」そのものとなる。二元的思考は気がつきやすいので、それだけでもすぐにやめたほうがよい(さて、本稿が自由主義と非自由主義の二元的思考になっているかと言えば、そもそも遺伝的性質として各自に選択の余地がないので、こちらがいいと言っても変えようがないし、問題が多い側が多数派で強い。できるだけ客観的記述に努めたつもりである。)。差別も典型的な「決めつけ(決め過ぎ、レッテル貼り)」である。「決めつけ(決め過ぎ、レッテル貼り)」は物事が因果関係の連続で起こっていることを無視し、「全部〇〇のせい」にしてしまうため、思考が歪み偏見となり、誤りを導く。本稿の自由主義のルーツを遺伝的変異に求める考えもやや「決め過ぎ」の可能性もあるが、私なりに証拠の事例を考慮した。「決めつけ」は真偽不明な内容、一見すると尤もらしいが真偽不明なものを伴うことが多く、真偽不明自体が一部の人の感情に作用して扇動の要素となり、真偽不明に惹きつけられそれを信じる自由主義的で依存心の強い人(真偽不明→不安→囚われる→不安から早く逃れるために真偽不明でもそれにしがみつく、怖いがゆえに惹きつけられる心理=「怖い」と「快感」は脳内では紙一重)と、理性的な人を引き裂き、社会を分断破壊する(2020年米国大統領選挙の例)。「古い政治(は悪)」も歪んだ「決めつけ(レッテル)」で、漠然と(真偽不明に)憎悪を煽るので、たったこれだけでも扇動となる。トランプ前大統領の「選挙が奪われた」も明らかな扇動(議事堂襲撃にもつながった)。「何でも人のせい」となる自由主義の人は、「騙された側が悪い」となり、騙すことに全く躊躇がない。何でも「人のせい(騙された側が悪い)」だから騙すし、何でも「人のせい(自己の放棄=無責任)」だから他者への依存心が強く騙されやすい。根っこは同じ。また、「人のせい=許さない」という感情、「不安=未来への恐怖」という感情を伴う記憶は脳で強化され残り続けるため、そのような感情を煽られてマインドコントロールされると解けなくなる(これが果たして自由主義の人だけに起こりやすいのかについては、「不安や恐怖」が過剰になるため起こりやすいのではと想像する。確証はない。)。

 

●自由主義の冷酷性と無責任

 自由主義では、他者の痛みがわからず、自分自身が戦争などで悲惨な目に遭って自由主義自体に恐怖心を持たない限り自由主義に対するブレーキが働かない。しかも、被害者としての記憶だけが残り、加害者としての記憶は失われがちである。脳において感情を伴う記憶が強化されるということは、これは他者の痛みでは感情が動かないということでもある。中国が日本に対して「被害(被爆者)の歴史だけを語り、加害の歴史を語らない」と批判するのはそれはそれで当たっている。日本の「保守」は加害の歴史を認めれば被害国が様々な圧力を強める口実になると極度に警戒しているのであろうか(周辺国が性悪説をとるべき相手ばかりでは無理もないかもしれないが)。しかし、それは相互不信にもつながるし、国内的には加害の歴史(事実)が継承されず歪んだ認識を生むことにもつながる。そして歪んだ認識は破壊の連鎖を生む。周辺国への対応は難しいかもしれないが、少なくとも国内では加害の歴史を隠してはいけない。日本のテレビ等はまだ加害の歴史を紹介しているほうかもしれない。また、自己の加害を語らないことで、日本人が原爆投下を行ったアメリカを「許さない」とはなっていないのが本来の「許し」ではなく、アメリカという強者・戦勝国への追従や自己の加害隠しのためなのかという疑念にもつながる。「許し」という高度な精神ならば、自己の加害の歴史にも向き合うはずではないか、向き合った上で「許す」のではないかということである。)。

 

●一神教の自由主義性、権威主義、全体主義性
 宗教では、ユダヤ教などの一神教自体が排他性、権威性により自由主義、全体主義の性格を持ち、キリストはユダヤ教の厳しさに対して寛容さを取り入れようとし、つまり自由主義の修正を試みたのだと思う。しかし、一神教の自由主義性は変わらず、人々の遺伝的な自由主義も直せず、後世、キリスト教の名で、つまりキリストを信仰?しながら堂々と自由主義が行われている(カトリックも正教会もカルヴァン派も自由主義である...同類他者への攻撃である党派抗争、大航海時代の植民地開拓に便乗したこと、正教会は今ロシアと一体的なことなどからしても。原典主義で特に個人の信仰を問う点を特徴とするルター派はこれらとは違うように思う。)。日本の明治以降の特に軍国主義に付随した国家神道は、おそらく西欧を真似て、一神教的に作られたものではないか(全体主義を構成)。

 

●熱狂という責任放棄(依存心)、冷酷性は全体主義を生み民主主義を生まない
 熱狂とは他者にすがり依存するものであり全体主義に直結する、つまり、冷酷であり熱狂により独裁者を倒しても民主主義とはならない(遺伝的性質により起こるため、その自由主義の性質の人々が非常に多い地域、後述のとおり例えば東欧やロシアとか東南アジアなどでは繰り返し起こる)。日本の日中戦争や太平洋戦争開戦前後では、他国の都市を陥落させたこと、戦果があったことを、相手国に多くの犠牲を出していても、国民は熱狂し歓喜し祝賀ムードが国を覆った(「昨日の友は今日の敵」状態に短期間で豹変、全体主義による民族的優越意識も浸透)。この抑えきれない国民の圧力は政府に太平洋戦争開戦を決意させた要因の一つにすらなった。全体主義は国民性により作られ、全体主義は無責任の集合体である。つまり今の日本でも簡単に起こり得る。太平洋戦争の端緒においては「自存自衛」を掲げていた(詔書にも)が、「大東亜共栄圏の新秩序建設」(欺瞞に満ちた完全な自由主義、実態は資源の獲得のため)という陸軍方針に置き換わり泥沼の戦争に突入してしまったことも、熱狂が後押ししたからではないか。つまり、最初は民主主義の基礎でもある「抑制的自由主義」であったが(昭和天皇もそう望んだ)、緒戦の成果が熱狂をさらに強め多くの国民は自己を失い民主主義の条件を喪失しており、完全な自由主義に変質してしまったということである。


●再び、保守は思想や理念ではない
 「保守」とは、自由主義により市場経済、自由競争を推進する「小さな政府」の国家がその結果として国防と治安維持に集中することで生じるもので、つまり、これも自由主義という遺伝的性質であり、思想や理念ではない(重要)。「保守」を思想や理念として議論するのは全く無意味。なぜなら、例えば、思想や価値観なら影響を与え得るとしても、ある性格の人にその性格の意味を説いて改めさせるのは難しいだろうし、それは相手の存在否定にもなり(優生思想にも接近)、他者を攻撃し排除すれば結局自ら自由主義に寄ってしまうからである。しかし、飛ぶ魚(トビウオ)、泳ぐ鳥(ペンギン)がいるように、必要があれば何万年、何十万年、あるいはもっとかければ生物は変化もするに違いない。そういう意味では自由主義の改良は全く諦めてしまうものではないかもしれない(その必要性が存在する限り。理念ではなく「必要性」によりである。)。あるいは、自由主義の原因遺伝子(セロトニントランスポーター遺伝子の一塩基多型あたりか)を特定し、遺伝病と認識して治療(セロトニン投与など?)の対象とするという考え方もあるかもしれないが、これも優生思想に接近しそうで危ういし、そもそも大反発があるに違いない。

 

●自由主義が破壊の連鎖を生むメカニズムと戦争の残虐行為

 自由主義は破壊を招き、破壊はさらなる破壊の連鎖を生む...自由主義は自動拡大する...安倍元総理の事件は統一教会の自由主義による破壊がさらなる破壊を生んだものという面がある。2001年アメリカ同時多発テロは、第一次世界大戦前のイギリスが自由主義資本主義によりパレスチナの石油や穀物を独占するため...アラブ人とユダヤ人を扇動してオスマントルコを倒しパレスチナを支配...アラブ人を裏切り、パレスチナ社会を破壊したことから始まる。現在のスウェーデン、フィンランドのNATO加盟の動きはロシアの自由主義が自動拡大したもの。日本の政治では、新自由主義への不満が新自由主義の政党を躍進させる...不満は自由主義を強めるエネルギーとなるため認識が歪み、不満の種を蒔いた張本人が自分こそそれを解決できると訴える自作自演のようなことが成立する...不満をフィードバックさせる自励式自動拡大...例えば、格差を強める政策を続けながら「一億総活躍」を訴えるなど。後述するように、古代の孟子の潔癖性(自由主義)が、朱子学、水戸学を経て日本の日中戦争、太平洋戦争につながり、孟子の出身地近くの青島が日本に攻撃占領されたことにしても、前述のイギリスの自由主義資本主義による破壊がアメリカ同時多発テロになり、旧統一教会による破壊が安倍元総理の事件になったことにしても、自由主義の発信から随分時を経て、発信地(者)の脇に「破壊」となって帰ってくるものである。

 戦場での残虐行為は、おそらく、破壊により「自由を奪われた人」を見て、「さらに自由を奪ってやれ」という快楽に似た心理を生じることで起こる(「喜ぶ相手を見て、もっと喜ばせよう」の反対が起こるということ。錯乱、狂気。)。これは「相手の平和的な自由を奪うと、(双方が)さらなる破壊を生む破壊的自由に転換される現象」としても理解できる。「(物理的制限のみの自由の総量)-(平和的自由)=(破壊的自由)」とし、なおかつ短期的には自由の総量は変わりにくいとした場合そのような解釈が成り立つ(平和的自由を壊し、奪って減らせば、破壊的自由が増えてさらなる破壊を生む。破壊と平和的自由の喪失が同時に起こりその現象はそこで完結するという解釈にならない理由は、「自由」とは未来の可能性の概念、エネルギーのようなものだから。)。自由の総量はイノベーションやインフラ建設などで創出され、インフラ喪失や資源の枯渇などで減少。「自由」とは自己の意思で決定でき実行可能な選択肢の多様さや大きさであり、「平和的」とは人々の共存する社会を成立させ争いがない状態である。「人命喪失」や「インフラ喪失」「資源の喪失」では、平和的自由の減少と、可能性を生み出す存在そのものの喪失として自由の総量の減少も同時に起こる場合(それくらいインパクトがある=窮している場合)には、前述の式から「破壊的自由に転換されない」。日中戦争の兵士の犠牲は、日本がまだ窮していなかったため、アメリカによる中国からの即時撤退の要求に応じられない理由になり、太平洋戦争開戦に向かう原因の一つになった(これは経済学で言うサンクコストに囚われた誤りに似るが、死者や遺族への思いという心情は自己の投資への心情とはやや異なる。また、アナバチの例...「自分自身」が餌を多く入れた巣ほど守ろうとする...など自然界にはサンクコストへのこだわりの例もあるといい、誤りかどうかは単純ではない。)。一方、窮した状況では、多くの犠牲により破壊的自由の増加が止まること(当たり前と言えば当たり前だが、窮している側が先に止まる)がおそらく戦争終結の原因にもなる。平和的自由を減らす循環が、平和的自由の加速的減少となり平和的自由がマイナスとなった状態(マイナスの自由=他者の強制、平和的=争いがない=抵抗せず受け入れる)は全体主義(超自由主義)であり、破壊的自由が自由の総量を超えて過剰となる。他者の強制が絶対の状態では「個人」の尊重はないため、個人に付随する生得的普遍的なモラルは失われ、例えば軍隊などでは規律の乱れ(現地での目を覆いたくなるような狼藉など)が必然的に起こる(日本の新型コロナ対策で、営業自粛の事実上の「強制」ですら、モラルの乱れや分断が起こった)。ではマイナスの破壊的自由は超民主主義かというと、民主主義は中庸であり、そのようなものは存在し得ず、それを求めると自由主義となる。もう一つ、前述の式は「(物理的制限のみの自由の総量)=(平和的自由)+(破壊的自由)」と変形でき、発明などで創出された自由は、平和的自由と破壊的自由の両方に利用可能(区別しない)ということも表しており、重要な注意点である。

 全体主義による強制の絶対性(=「個人」が全く尊重されない、本人自身も尊重しない状態)が個人に付随する生得的普遍的モラル(憐れみや自制心など)を消失させることで現れると考えた「戦争での残虐性」は、誰にでも起こるのか、果たして遺伝的に自由主義の人に起こりやすいのか。私が思うのは、遺伝的に自由主義の人はもともとが普遍的モラルをかなり失っているか発揮しない可能性があり、モラルを消失させられるのは遺伝的な自由主義でない人であろうということ。保守(自由主義)派は、戦争の加害の歴史に自虐史観というレッテルを貼って否定し向き合わないことがそれを示している。 

 

●自由主義を民主主義と呼びたがる人々 
 各々が民主主義と自称する、英米の「各自自分勝手を追求」式も、中国の「全体の利益最大化を口実とした多数派支配」式も、どちらも程度により民主主義とは言えない。

 

●潔癖、過剰は危うし 潔癖に「民主」を追求すると自由主義になってしまう

 潔癖、過剰に平等や民主主義を追求すると、むしろ自ら自由主義になり真逆になってしまう(過ぎたるは猶及ばざるが如し)。共産主義はその潔癖さにより自由主義(資本主義)となる(資本主義を否定しながら資本主義となる)。つまり、社会主義ではない。多くの人は保守による「反共」プロパガンダにより(非自由主義だと)誤解している(社会主義に対する誤ったイメージが定着)。ともに自由主義なら、左翼、右翼というレッテルは無意味。日本共産党の潔癖度は分からないので、これが当てはまるかは分からない。後述するように、古代の孟子(儒学者、思想家)は、覇道と王道を峻別したり(二元的思考)、性善説に基づき民衆を「過剰に」信用し、人民の信任のみが天子の位を与える天命の根拠になるという「潔癖さ」があり、いかにも内容は民主主義的なのに、完全な自由主義である(孔子の教えを自由主義化してしまった)。孟子の考えは朱子学に強い影響を与え、日本にも渡り、その影響を受けた特に水戸学は、尊王・尊皇を掲げ倒幕や明治以降の全体主義、軍国主義の根拠になり、戦争で何百万という命が失われた。潔癖は危ない!! 高学歴な人や真面目で純粋な人は、洗脳が容易と見なされてカルトにも狙われやすいであろう。上に立つ者が潔癖性を発揮すると悲惨である(上からの命令への盲目的で厳しい忠実さと誤りを認めない臆病さがあり、その潔癖さは自由主義となるため、不寛容、冷酷、無責任を伴い、無責任=弱い立場の者を守らないということに。インパール作戦など。)。上に立つ者に知性と人としての生得的普遍的モラルは必須だが、潔癖さは毒である。本稿では、生得的普遍的モラルと、他者が与えて道徳と呼ぶものを区別し、後者は例えば教育勅語のように潔癖性を帯びて全体主義にも使われるため「道徳」の語を使用しない。なお、渋沢栄一の道徳経済合一説は、おそらく本稿の「抑制的自由主義」、民主主義に近い方向のものであろう。

 潔癖の身近な例は「〇〇は健康に良い」という情報を盲信し、過剰にそれを追求して不健康になることである。 

 

●自由主義で自由主義は直せない

 自由主義の欠点、自由主義が起こした問題を自由主義で直そうとしても直らない。独裁を熱狂で倒しても再び独裁になるし、自由主義の政党がいくら問題解決の方針を打ち出しても解決しないなどの現状がそれを物語っている。もっと端的には侵略的な戦争に対して侵略的な戦争で解決しようとすることが当てはまる(専守防衛的な戦いが民主主義的、自由主義では拡大志向により侵略戦争に)。


自由主義(「保守」も同じ)も全体主義も理念ではなく遺伝的性質であるということ

 おそらく、旧約聖書の「原罪」を背負った人々、仏教の三毒...「貪瞋痴(とんじんち、貪る・憎悪・妄想と無知で愚か)は、自由主義、資本主義、全体主義そのものに思えます。貪る=飽くなき利益、領土の追求(尽きない不安→尽きない不満)」...に冒された人々、孔子が言った「最高の徳である中庸=民主主義の重要な要素※」がわからない人々、これらの人々は自由主義の担い手たるY染色体ハプログループKの系統の人々である可能性が大きいと私は思います(分子人類学による男系祖先による系統で、約4万7千年前に中東のあたりで生まれた系統)。「過剰な不安や恐怖」に支配されてしまう遺伝的性質を持つ人々であろうという意味です(全ての根源はこれでしょう)。正確には、不安の遺伝子はY染色体にはないでしょうから、Kの一族の誰かに不安の遺伝子となる常染色体上の変異が生じて、その性質ゆえにたくさん子孫を残したのでしょう。前回の記事やそれ以前から書いてきましたが、Kの系統と自由主義に関係があるとしか思えません。この考え方に基づけば、性善説、性悪説が理解できます。Kの子孫の系統の人々が多数派の社会、集団にいたら性悪説になるでしょうし、K以前、Kとは異なる系統の子孫が多数派の社会では性善説になるだろうと思います(前の記事のとおり、Kの子孫の系統の特徴はそれくらい顕著)。

 注意点として、性染色体やミトコンドリアのDNAによる男系、女系の祖先の系統分析では、常染色体のことを全く見ていないので当然に、混血度合い、つまり全ゲノムで見た実際の遺伝的近縁度はわからないということです。あくまで、その地域に残る系統の組成から、「その地域」では、それらの混血があり、「地域の集団」として見た時に、特定の偏りを生じる習慣等がなければ、確率的にその組成割合にある程度応じた性質の傾向が「その地域」にはあるであろうといういう推測が成り立つということなので、個人(特に有名人などに着目した情報がネットには多い)がどの系統に属するかに着目してもあまり意味がありません(ましてや、その方の祖先の個別の要素、例えば遠い地域の祖先がいるなど、個別の不確定要素があります)。例えば個人では、性染色体が縄文人(Y染色体のDの系統)とつながっていても常染色体では弥生人(同Oの系統の人の遺伝子)の要素が強い可能性だってあります。特に地域の組成以上に歴史的に偏りを生じる習慣の例としては、Oの系統の一族が娘を権力者(Dの系統)に嫁がせて、権力を掌握するということが頻繁に繰り返し行われれば、その支配層の子孫には前述のような偏り(系統はDでも中身がOの遺伝子)が広がります。「広がる」なら、長い時を経れば「地域」としてもその傾向がいくらか現れるでしょう。あくまで系統分析は、大きな地域集団の傾向を考える「参考程度」ということです。
 ロシア人や東欧の人々、中国の華北漢民族、朝鮮民族、東南アジアの人々はKの子孫の系統(ロシアではR1aとN、東欧ではR1a、中国、朝鮮半島、東南アジアはOの系統)が圧倒的多数派で全体主権が顕著、また、アイルランド、イギリスのスコットランドやイベリア半島、イタリア北部、フランスの北部と東部、スイス、ベルギー、オーストリアの一部でもKの子孫の系統(R1bの系統)が非常に高頻度で大航海時代の植民地開拓(スペイン、ポルトガル、ジェノバ)とその支配、産業革命による資本主義の拡大と支配の拡大(イギリス)など「支配」が顕著です。農耕を開発して自然から「搾取」し自然を「支配」し、生産と生産物そして「搾取」を通じ人間の「支配」を始めたのも、地域(中東と中国)と時期から考えてKの系統、マンモスを採り尽くして絶滅させたのも、地域(東欧、北ユーラシア、北米)と時期から考えてKの系統であろうと思います。それ以前から住んでいた人々を駆逐しながら世界に拡大した系統で、世界中に広がっています。島国など地理的条件などにより以前の人々がいくらか残る地域もあります(北欧のIの系統、チベットや日本のDの系統など)。北欧では、助け合いや中庸の文化があり、自由主義とは異なる社会民主主義(民主主義)が成立しています。日本のアイヌ(Dの系統)には共有地の文化(イオル)があり、土地私有の概念が無かったと言います(集団間の争いはあった。Wikipedia「アイヌ文化」2022/6/2 22:36版)。現存最古の人類とされる南アフリカのサン人(Aの系統。「ブッシュマン」として有名。)の社会では、リーダーはなく、性別や年齢による役割の違いはあるものの身分や地位の差がなく対等とされます(Wikipedia「サン人」2021/10/23 13:50版)。
 孔子が「中庸が実現しない」と嘆いたのもOの系統の人だらけの集団では無理はありません。釈迦の出身地であるインド北部は、現在の系統の分布(Wikipedia「Y染色体ハプログループ」2022/7/12 10:02版から各系統のリンク先の図で確認)から言っても、Kの系統ではない(非自由主義と考えられる)Hの系統と、もしかすると少しはDの系統と、Kの系統であるLの系統が、Lが支配的とはならず混在する地域なので、自由主義が少なく民主主義の要素が強い地域だったであろうと思いますし、Kの系統の人々の自由主義の性質も鮮明に客観視できたのだろうと思います。また、Lが支配的だったら仏教は弾圧されて全く広まらなかったかもしれません。後世に広がったのはそれぞれの特性に合わせてアレンジされたからだと思います。アレンジされると本質的な部分が変わってしまう場合があります。

 旧約聖書の生まれた土地はKの系統が生まれた地域であり、「原罪」の逸話は、矯正不能な自由主義の性質を「食べてはいけない実を食べた」から生じたものとしているのでしょう。それ以前の人々にはなかったものという認識も伴っています(突如現れたという民族的な記憶が残っていたのでは)。

 

 

国民性の反映としての全体主義


 国民性を左右するほどのKの系統による自由主義があり、つまり、全体主義は独裁者が一人で成したのではなく、国民性が反映された結果と言えます。「独裁者のせい(人のせい=責任転嫁)」と考えるのも自由主義の特徴(前の記事参照、他者に向けた自己責任も責任転嫁)の一つで、それをやっていると永遠に反省できず何度でも過ちを繰り返します。日本では、保守系(自由主義)の人たちが、戦争の反省(特に加害者としての歴史)に対して自虐史観というレッテルを貼ったり歴史修正主義により否定し、「他国が悪い」と主張しており、これも全く同じことです。さらに、近年よく聞く「野党が弱過ぎる」という批判も、当事者意識(社会を共有している民主主義の感覚)がゼロで、後述のように日本人は弥生人の系統が多数派であることを考えれば、小選挙区制ではまず無理な注文を野党の政治家のせいにしています(弥生人=保守=自由主義が絶対的多数派だけれども圧倒的多数派ではないため、自由主義どうしの闘争をすると全体の主導権を取れない可能性があり、表面上は自由主義で一枚岩になった自民党が小選挙区制だとまず圧勝するのは必然。遺伝的な自由主義の人々である前述R1bの系統が圧倒的なイギリスでは自由主義どうしの闘争が歴史的に階級闘争に落とし込まれ、アメリカでは人種間闘争も絡み、拮抗も成立するが、小選挙区制ではいずれにせよ自由主義の政治になる。)。

 全体主義の体制は、日本やドイツや旧ソ連の例を見ても100年は続きませんが(日本では明治から太平洋戦争の敗戦まで約80年)、それでも国民性によって、ロシアの例のように何度でも繰り返し成立してしまいます(スターリンがいなくても共産主義がなくても成立します。ロシアをいわゆる民主国家にするのはほぼ不可能でしょう。ソ連崩壊後の市場経済化が大混乱と困窮を招いた後、プーチン大統領が就任すると、偶然に?主要輸出品の原油・ガスが高騰したことで急速に経済が回復したこと、また構想力もあり、さらに対外紛争の勝利を導いたことなどからも高い支持を獲得、この時に「強者にすがり依存する自由主義の国民性」が発揮されて強固な支持となり全体主義化につながってきたのだと思います。)。宗教も社会体制も国民性が反映されアレンジされます。例えば、イギリスのカルヴァン派(ピューリタン)の潔癖性は自由主義の証のようなものです。これらの人々に起源を持つアメリカの白人支配層には当然、R1bの系統の人々は多いでしょうし(自由主義の保守、共和党に)、近世の西欧人が移民した当時のアメリカ大陸では既に別のKの系統の先住民が圧倒していて(Qの系統、だから激しい争いになった)、アメリカでKの系統でないのは北欧からの移民の一部やアフリカから連れて来られた人々の一部などでしょう。
 「全体主義が国民性の反映だとするなら、これは民主主義か?」と言うと違うでしょう。国民に主権があるか否かが、民主主義であるか否かです。過剰な不安から逃れようと、すがり依存するのが自由主義の特性の一つであり全体主義で、それは責任放棄、自己の放棄なので、「道理として」は主権者たり得ないと言え、そのような人が多数では民主主義とは言えません。例えば、日本の選挙でも、扇動により(例えば、小泉政権などは顕著だった)感情や思考を操作されている人は「道理として」は主権者たり得ないでしょう。「ナチスは民主主義から生まれた」などと言われますが、この考え方によれば民主主義は成立していなかった(形式的な投票があっただけ)という可能性があります。

 全体主義が国民性により作られるということは、日本もそろそろ危ない(再び全体主義になる可能性がある)わけです。なぜなら弥生人はOの系統で、現代日本人は系統だけで見てもOの系統が過半数であり(本土の西日本が多い傾向、沖縄やアイヌではOは少なくDの系統=縄文人の系統が多い。混血により実際には「不安と恐怖」の遺伝子はもっと浸透しているのでは。東大による地域ごとの全ゲノムの一塩基多型の多変量解析では近畿四国が北京の漢民族に最も近いとされた...東京大学大学院理学系研究科理学部サイト2020/10/14「都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造~縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性~」。)、小選挙区制を適用すればまず保守派(自由主義)が常に圧勝することになり(前述のとおり、弥生人=保守=自由主義が絶対的多数派なものの圧倒的多数派ではない状況は、自由主義どうしの派閥闘争を隠して表面上は自由主義の一枚岩となった自民党の圧勝を導く)、なおかつ戦後80年が経って自由主義にブレーキをかける存在が社会の中核からいなくなっているからです。古代だけでなく、現代でも、在留外国人で多い、中国、韓国、ベトナム人のほとんどはOの系統であり、今なお侵食され続けています。また、弥生人の傾向が強い本土人は、自由主義の性質により他者の「痛み」を共有しないため、沖縄の米軍基地による現地の人々の「痛み」を共有しない傾向があるのではないでしょうか。新自由主義(濃い自由主義)は全体主義の前段階で、保守(自由主義)が躍進し、(民主主義の原則が書かれた)現行日本国憲法を変えようとしています。保守派の扇動に操作されない国民の知性が試されますが、悲観的な気分になります。しかし、一方で日本人は中国やロシアどころか西欧人よりも性善説側のようであり、縄文人の遺伝子はまだそこそこ残っているということなのだろうかとも思えてきます。と言っても、それは自由主義の人々により「食い物」にされてしまいかねないことでもあり複雑です(自由主義的な人が依存心から扇動され騙されるのに対して、自由主義的でない人はもともと相手を信じるから相手が騙す場合に騙されるという違いがあります。騙す存在が関わるのは同じですが、騙され方がかなり異なるわけです。自由主義の場合、依存ですからマインドコントロールされて解けなくなり(例えば、不安=未来への恐怖など、巧みに感情を煽られて騙され、感情を伴う記憶として脳で長期記憶として強化されるためでしょう)、その状況はエスカレートしますが、自由主義でない場合、失敗に気付き反省しその状況を脱することができます。ロシアのプーチン大統領がKGBの世界観から抜け出せないのもこの自由主義の性質かもしれません。さて、日本人の場合どちらが多いのか。特殊詐欺被害や統一教会による被害は明らかに前者です。前者が多い気がすることと、性善説の傾向が矛盾します。)。なお、多くの日本人は縄文人と弥生人の混血なので、典型的な弥生顔、縄文顔の基準による単純な見た目では弥生人の影響の強さ、特に自由主義の傾向に関して、おそらく区別はつかないであろうと思います。

 近畿四国が遺伝的に北京の漢民族に近いということと、大阪で新自由主義の政党が支持され躍進する状況は大いに関係あると思います。満州事変をきっかけに、大阪の港町で国防婦人会が生まれたことも関係あるでしょう。当時女性に参政権はなく20代で嫁げばあとは姑や男性に抑圧され続けるだけの状況があり、活動はそこから解放され社会参加できるものだったためにあっという間に広がり、やがて軍部の目に止まり軍国主義に組み込まれ全国組織となり利用されました(NHKスペシャル選「銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ“普通の人々”~」から)。家庭の抑圧→不満→社会にさらなる抑圧を拡大することになる活動(軍国主義の推進)に。自由主義を拡大させ、全体主義を自発的に生み出しやすい地域性とでもいいましょうか。

 なお、同じ近畿四国でも、有名な第一次世界大戦期の徳島の板東俘虜収容所における人道的な対応は、松江所長が福島出身だったからでしょうか、それともその生い立ちからでしょうか。例えばドイツのメルケル元首相の場合、家系(父方はポーランド人)から選挙での闘争性、宗教(父方はルター派牧師)や特に自身の体験(東側の抑圧社会)からは難民受け入れ政策(痛みの共有)への影響の強さを感じます。


自由主義と全体主義が同じである理由

 なぜ、自由主義が全体主義を志向することになるかと言えば、自由主義として市場原理による自由競争を推進する「小さな政府」を志向すると、残る国家の機能は、国防と治安維持になり、政治家の関心もそこに偏るからです。全体主義の国家も国防と治安維持のウエイトが高いイメージはないでしょうか。そして、全体主義では国家が強烈な自由主義を行います(資源や領土を求めて他国へ侵攻し支配)。明治政府は軍国主義、警察権力による抑圧のある全体主義で他国と戦争もし、その後は資源を求めて他国へ拡大侵攻したわけですが、資本主義の拡大が同時進行しました(幕末の水戸学が全体主義の直接的な起源...水戸学の元は幕府自身が導入した朱子学...孟子が「覇道の否定、王道の肯定」という二元思考を入れて自由主義化してしまった以降の儒学...孔子の教えと儒教は別物。水戸徳川家は朱子学の潔癖性=自由主義に感化されやがて覇道の幕府を自己否定し、明治の全体主義を生んだ。因果関係の連続を辿れば、太平洋戦争の原因の深い部分には孟子の行動も関係しているということ。Oの系統だらけの中国という地では孟子の性善説の認識は誤りで、二元的思考だけでなく人民への信頼の「過剰さ」から言ってもやはり自由主義であった...統治の根拠を人民からの信任に求めるといういかにも民主主義そのものなのに、民主の追求が潔癖過ぎると民主主義とはならず自由主義に、そして遥か後の世の日本で全体主義のもとになり、やがて戦争を起こし、奇しくも孟子の出身地に近い青島は日中戦争で占領され、戦争は何百万人もの命を奪った。純粋潔癖というものはそれくらい危うい。日本では、潔癖ゆえに覇道を否定しながら自ら覇道になるという言行矛盾...尊王→尊皇攘夷→倒幕→明治以降の侵略戦争...は自由主義そのもの。)。その明治政府による自由主義としての規制緩和の結果が、新興財閥による独占です。「近代化」は、たまたま西欧との格差がありこれを借用して産業革命の疑似追体験をできたからに過ぎず、明治維新の規制緩和の成果ではありません(明治維新が近代化を生んだかのような誤解が自由主義を肯定する要素になっています。誤解が浸透しているので「維新」という語自体が扇動の要素になり得ます。規制緩和が導くのは、過剰な競争のためにイノベーションによらない「搾取」によるコスト圧縮、そして新たな独占であり、労働者は貧しくなりデフレの一因にもなります。規制緩和では基本的には成長はありません(敢えて安定の逆をやることで膠着化した問題の突破口を見つけるというプラスの要素はあり得そうですが、その状況に特化したピンポイントの対策としてであり、注意して用いる必要があるでしょう)。争奪を活況と勘違いしています。中曽根政権や小泉政権の新自由主義がそれを示しています。)。政治の独裁である自由主義と経済の独裁である資本主義は手を取り合い一体です。だから、資本主義に抑制がかからない状態は自由主義を強め当然民主主義にはなりません。日本の新自由主義下で一強、官邸支配が進んだのは当然です。グローバル経済の拡大とともに(これを、自由主義市場経済の自由競争の進展=自由主義資本主義の進展とするなら)、トランプ氏のような独裁的ポピュリスト=扇動政治家が現れて自国第一を言いだしたり、中国の覇権主義、ロシアの侵略が進行拡大したのも同じかもしれません(資本主義の進展と民主主義の弱体化は同時に起こる...当然の結果)。日本では中曽根政権が新自由主義を導入してから、あからさまに権力闘争(要するに自由主義どうしの闘争)だけのような政治家が目立った動きをするようになりました(小沢一郎氏のこと)。自由主義→既存の秩序の破壊→次の独占に向けた群雄割拠→争い→独占の進行、が政治でも経済でも起こります。ロシアのプーチンは資源がカードになることに早くから気付いていたでしょう。ロシアの侵攻はグローバル経済を壊すものと映るかもしれませんが、資本主義の本質は「搾取」「独占」「支配」です。「見えざる手」が(多くの人の)最適へと差配することはありません。ロシアは今後も資源を武器に独占支配を強めるだろうと思います。資源が枯渇し争奪になる激しい自由主義の状況では、強烈な自由主義を行使する=力づくで問答無用に奪う全体主義の国家が有利で(奪った者勝ちになるから)、ロシアは敢えてその状況を作り出しています。ウクライナはチェルノーゼムという肥沃な大地を擁する世界的穀倉地帯です。 

 自民党の2012年の憲法草案は、「個人の尊重」の「個」が削除され、「公共の福祉」は「公の秩序」になり(つまり公による「支配」)、全体主義を志向するものでした。私から言えば虚偽の「公益」という良心を刺激するタイプの扇動も伴っています。自由主義(保守)と全体主義がつながっていることの一つの現れです。 

 故安倍元総理が言っていた「美しい国、日本」は旧統一教会の日本の初代会長久保木修己の著書名からきているのが時系列から考えてもほぼ明らかな感じがしますし、政府与党に強い影響を与えているということは日本という国そのものが旧統一教会に乗っ取られる感じさえしてしまいます。そして、安倍元総理は確かに深い関わりがあったのだろうという印象を受けます。Wikipediaの情報でも、この団体の教祖の意図には日本を完全に支配することが入っており、もし、これが正しいとするなら、この団体に利用されること自体が「売国的」と言えるし、安倍元総理の事件の犯人の母親も含めて信者は今なお信仰?をやめない状況があり、問題はまだまだ終わっていません。日本会議どころではない黒幕があったということかもしれません。私はこれまで注目できてきませんでしたが、前述の草案には政教分離を緩和する部分もありました。総裁選にも出た石破氏は総裁選の演説でこの草案を激賞していたのを覚えています(石破氏は温厚そうに見えて危ない人だとその時にも感じましたし、草案は確かに自民党の本音なのだろうと思いました)。政教分離に対しても今後は注視が必要です。信者の家庭を破壊し、さらに金蔓として日本人を利用し尽くすようなカルトがなぜ蔓延るのか(旧統一教会の方向性は反共保守の自由主義であり、自由主義は全体主義を導いて「我が子より教祖が大事」になりますが、これは戦時の日本での「我が子よりも国家が大事」と同じです。そして自由主義は破壊性を発揮します。)、洗脳というものは、感情を強く刺激して感情を伴わせることで記憶を強固に定着させるものなのか(怖がらせたり、当人の不安を刺激したり、時々安心感を与えてコントロール)、高学歴の人や真面目な人が騙されやすいのは、純粋さが潔癖性(他者の自由を許さない不寛容)になり自由主義になってしまうからではないか(不寛容も不安と関連。そのような純粋さはやはり遺伝的な自由主義の可能性も。)、脳科学的な観点による対策も必要だと思います。それがわかれば、扇動を得意とする自由主義勢力全般に有効かもしれません。

 旧統一教会は「反共」を旗印にしていたのにある時期に教祖が北朝鮮と融和したので矛盾を感じ洗脳から解けたという人もあるようです。本稿の内容「保守による反共は兄弟のいがみ合いに過ぎない」を理解していれば、はじめから騙されなかっただろうと思います。「反共」を声高に言っている人たち全般に気をつけたほうがよいと思います(生理的にも見える異様な共産主義への嫌悪の姿は、まさに潔癖で不寛容な自由主義そのものです。一見なるほどと思うようなことを言っていても、肝心な部分が何かに冒されている感じがします。ここまで書いてきたとおり自由主義はあらゆる破壊の元になります。)。

 

 

※本文冒頭「中庸は民主主義の重要要素」について(前回の記事によるポイント+α)↓

~民主主義とは~


 民主主義とは、国民に主権があること(それ以上でも以下でもなく、例えば、多数派支配や全体の利益最大化のような意味は持っていない。多数派支配を作る多数決や小選挙区制も当然には民主主義とは言えない。国民と主権に着目し解釈する必要がある。)。まず、「国民」については一定の地域に複数の人々が「共存」する状態、さらにもう少し積極的に協力し合い「社会を成す」状態が考えられる。そして「主権者」の条件として考えられるのは(前回の記事から一部要約の2条件)、

①個人を保ち、責任をもって主権を行使できること(扇動され感情や思考を操作された人、熱狂的に誰か何かを信奉している人は、自己を失っているか依存心により自己を放棄しており、道理として主権者とは言えない。また、互いに「個人を尊重」する必要がある。)、
②社会(自然を含む)を「共有」している感覚(「複数の人々」が社会を成し、その社会に対して主権を持つには「共有」が必要。「私有(排他的独占支配、資本主義の基礎)」の対象が簡単に商品化され取り引きの対象になるのに対して、「共有」では難しく、つまり奪われにくい。社会に少しも意思を反映できないなら「共有」の感覚はない。相手を尊重することも必要。「共有」するには、独り占めしないこと、つまり「抑制的な」自由主義であること。「公共の福祉」による自由の抑制。採り尽くさない、開発し尽くさない。「過剰な不安や恐怖」に支配されないこと。)

 侵略戦争は否定するが専守防衛の武力は必要としたり、人権を抑圧しない程度の警察権力を必要とするなども「抑制的な」自由主義、言わば必要悪であり(例えば、日本の里山で行われる有害鳥獣駆除は、絶滅が目的ではなく「人と野生動物の共存」のため、数の調整を行うという例のように、「共存」のための相互の自由の調整として自分たちの存続が危うければ自由を主張もし行使もするが「共存」は壊さずやり過ぎないということである。完全な自由主義の場合、過剰に自らの危機を感じて、徹底的に相手を痛めつけることになるので、そこが大きく異なる。)、また、「抑制的」は、貪らない、潔癖、過剰にならないことでもあり、ここに民主主義の本質がある(つまり、仏教の三毒のうち少なくとも「貪」を克服すること、しかし「瞋痴」も自由主義を強めるため、やはり「貪瞋痴」を克服することが民主主義を導く)。民主主義は「中庸」にあり、潔癖に平等や自由を求めるとむしろ民主主義からは離れ、過剰な自由主義=全体主権に近づく。過剰に求めるとむしろ反対に行ってしまうというのは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というのと同じ。自由な市場経済も適度な抑制がなければ民主主義とはならず、自由主義資本主義による独占支配を導く。共産主義は潔癖性ゆえに社会主義ではない(共有はなく国家による独占支配なので自由主義資本主義、全体主義)。熱狂は強烈な依存心(自己喪失=主権者たり得ない)であり、民主主義を生まない。熱狂により独裁者を糾弾し倒しても民主主義とはならない。
 小選挙区制のような代表者の決め方では、勝ち負けを決め過ぎて「独占」(多数派支配)を作るため、②の「共有」に反し、全ての国民には主権を与えない(民主主義とは言い難い)。

(以下、前回の記事での追記内容)

 英米の人たちは各々自分勝手なことを民主主義と言い、中国人は全体の利益の最大化が民主主義だと言います。しかし、どちらも(程度により)民主主義とは言えないと考えます。前者については、各々が無制限に自由を追求することは、地球という環境に依存し、集団で生きるよう進化した人類には現状不可能で、それでも追求すれば必ず自然を破壊したり他の人たちの自由を奪うことになります。他の人たちとの共存を壊すということは社会を破壊すること、社会的生物であることの自己否定になり、「人々」の共存がなければ民主主義の「民」という前提が壊れるため、民主主義とはなりません。後者については、日本では信じてしまう人も多そうですが(多数派支配を作る多数決や小選挙区制を当たり前に民主主義だと思い込んでいる人が多そうなので)、全体の利益最大化は多数派支配とほぼ同じことで、ということは少数派は抑圧、弾圧の対象になり得るということです。国民の中に国民でない(意思を反映できず、事実上主権がない)と見なす人を作ることであり、これも「民」を壊す作用をするため民主主義とは言えないでしょう。この「(少数派には)耳を貸さない」政治=「支配」で、耳を貸さないことにより潔癖性を増し、全体主義になります(こうなると完全に「個」の否定となり国民の側に主権者は存在しなくなります。誰もが被支配側で、支配する国家権力側の意図のまま。つまり民主主義ではありません。)。今なお「ゼロコロナ」を続ける中国は、本当に全体の利益最大化になっているでしょうか。全体の利益最大化を追求しているつもりが、潔癖のためにそうはならない可能性があります。全体主義により、社会的生物として獲得した生得的普遍的モラルも失われ、あるいは国民性としてもともとそれを失っている結果としての全体主義の面もあるのかもしれません。

 

 

その他

 日本の自民党政権はデジタル化の一つとしてマイナンバーカードの普及に躍起です。利便性を訴え、ポイント付与で誘っています。しかし、ここまで自由主義について書いてきたとおり、自由主義の自民党政権は根本的に信用できないということになります。社会民主主義(=民主主義)の北欧のようにはならないでしょう。自由主義の無責任さがあれば、システムの不具合による安全上の支障や不正の放置が予想され、自由主義(資本主義)の「搾取」にも活用されると予想されます(搾取は一方的な略奪、高福祉高負担の負担は民主主義の納得、つまり社会を共有し責任を共有する感覚から来ている)。
 自由主義の手にかかると...
ベーシックインカムは、一見平等、しかし資本主義下におけるフラットな制度は資本主義を邪魔せず格差は拡大(消費税も同じで、上げても下げても格差は拡大)、「生かさず殺さず」で支配されかねません。
教育無償化は、教育への介入(全体主義化)の口実にならない?

 

 

(あとがき)


 メディアの人たちも、民主主義が何なのかわかっていない人があまりにも多いように思います。
 自由という言葉への過剰な期待により、自由主義、自由な市場経済への過信があり、これを民主主義だと思い込んでいる人があまりに多いようです。どちらも「抑制的」に用いることで民主主義の要素になるものであり、積極的に「これこそ民主主義だ」というものではありません。

 自由とは自己の意思で決定でき実行可能な選択肢の多様さや大きさだと私なりに理解しています。誰にとっての自由なのか全く無頓着だと「自由=良い」という短絡思考になってしまいます。自由主義も自由な市場経済も抑制なく追求すれば多くの人にとっては自由を「奪われる」ものになることが一般的には理解されていないようです(自由競争の推進により強者の独占支配、搾取が進行)。旧ソ連が崩壊し、体制下にあった人々は突然市場経済に放り込まれて困窮したと言います。無制限の市場経済は民主主義ではなく、全体主義の独裁とは反対側の資本主義の独裁があり結局同じ自由主義です。その現実に直面し懐疑的になった国々が、一般的には自由主義の盟主とされるアメリカから離れ現在はロシアに近づくのでしょうが、ロシアも全体主義という過剰な自由主義なので結局同じなのです。ロシアも中国も国家が強烈な自由主義を行使していますが、これを民主主義と思う人はその国や友好国の人以外では少ないかもしれません。では、なぜアメリカの自由主義は民主主義だと言うのでしょう。少しは人権を大切にしているかに「見える」からかもしれませんが、他国の迷惑お構いなしに現在はインフレ対策の利上げを行っています。日本のバブルの一因となったプラザ合意の時と同じで、アメリカによる自国都合の優先です(痛みを共有するという意識が自由主義の性質ゆえに働かないため自国第一が当たり前)。
 これでは、何度でも同じ問題はやってきます。冷戦と世界の分断が再来しても仕方ありません。いつか、人類が絶滅寸前になった時(人類として)やるだけのことはやったと言えるでしょうか。

 

(追記)
 例えば、日本人が苦労して開発した農産物の品種を中国人に盗まれてあちらが安価で売ってボロ儲けしている場合をどう考えるか。もちろん、日本人にとっては「盗まれた」のだし、直接的には政府が厳しく規制をかけて農産品の知的財産を保護する政策を怠ったということではあります(ただし、あまり規制が厳しいと利用されにくくなり、品種改良もしにくくなるでしょうから、絶妙な塩梅が必要でしょう)。自由主義的な性質の人が多い集団では性悪説でないとやられてしまうということでもあります。
 中国には、社会主義的な「共有」を大義名分として「君のものは私のもの」式に勝手に他者のものを使う文化があるのかもしれません。政府は黙認しているかの如くです。とすると、自由主義資本主義の私的所有(排他的独占支配)がよいのかという話になってしまいます。ここで、民主主義の考え方に登場してもらいます(ここは遺伝的性質ではなく「考え方」としました。民主主義は自由主義とは違い、理念の要素も持ち、成立しやすくする遺伝的要素...非Kの系統であること...も持つと言えます。)。本稿の本文のとおり、民主主義の条件のうち、主権については、個人が保たれること、つまり「(相互の)個人の尊重」があり、社会を共有する感覚の要件として「意思の反映」がありました。意思がいくらかは反映されないと「共有」とは言えません。問答無用に「君のものは私のもの」という中国式は、やはり「共有」の皮をかぶった「搾取」、つまり中国は社会主義などではなく、社会主義の皮をかぶった自由主義資本主義でしょう。「搾取」は相手の意思を問わず一方的に奪う、くすね取ることです。奪って独占支配するのは自由主義資本主義の本質でした。
 知的財産の保護は個人の尊重の一つだと思います。本稿のとおり、民主主義は「抑制的な自由主義」を必要悪的に含むものなので、自由主義資本主義の私的所有を絶妙なバランスのもとに許容するわけです。そして民主主義は中庸ということです。「共有」が素晴らしいからと言って、その本質も知らずただ形だけ無制限、潔癖に追求すると、民主主義、社会主義からは離れ、もはや自由主義資本主義と同じになってしまうというわけです。

 

 

(参考)再掲